「信仰の継承」

男児をナイル川に投げ込めという命令の中、生まれた赤ちゃんを隠していた母親は、信仰を持ってその赤ちゃんを手放しました。

 水浴びのためにやって来たファラオの王女が川岸に置かれた籠を見つけ、ついにその赤ちゃんの存在がエジプト側に知れる時がやってきました。

開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。 (聖書 出エジプト記 2:6 新共同訳)

 男児殺害という命令を出していたエジプトでしたが、決して全ての人がそれをよく思っていたわけではなかったことと思います。

 ファラオの王女もそのように憐みの心を持っていたのかもしれません。何よりも、実際に可愛い赤ちゃんを目の前にし、よりそのような思いになったことと思います。

 しかし、これが神様が計画しておられたことでした。そして、親子は次の作戦に移りました。

そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」 (聖書 出エジプト記 2:7 新共同訳)

 母が直截出て行くのではなく、あえて姉を遣わして乳母を紹介させました。この計画も上手くいき、

「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。

(聖書 出エジプト記 2:8 新共同訳)

 全て神様が導いてくださるという信仰を持って自分たちの命を狙う相手国の王女と接触した母娘に対し、王女から嬉しい言葉が返ってきました。

王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」

(聖書 出エジプト記 2:9-10 新共同訳)

 このようにして、期間限定ではありましたが、無事に家族と暮らすことができる道が備えられました。

 この期間、母はしっかりと息子に信仰を継承しました。これを通して、後にイスラエルの民をエジプトから導き出すための備えがなされていきました。

 そして、この赤ちゃんは、約束の時を迎えファラオの王女のもとへと出向くこととなりました。そして、モーセと名付けられエジプト人としての生活が始まりました。

「ナイル川へ」

エジプトの中で繁栄していくイスラエルの民は、神を畏れる2人のヘブライ人によって王の男児殺害命令から逃れることができました。

しかし、そんな中でも更なる命令がくだされました。

 ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」(聖書 出エジプト記 1:22 新共同訳)

 この命令が出された渦中において、イスラエルの人々にとってとても重要になってくる存在がこの世に生を受けました。

彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。 (聖書 出エジプト記 2:2新共同訳)

 生まれた男の子は、例外なく殺害命令の対象となっていました。しかし、何とかして命を救おうと存在を隠していました。しかし、長く隠しておくことはできません。そこで、母は信仰を持ってある計画を実行しました。

しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。

(聖書 出エジプト記 2:3 新共同訳)

 母の計画は、息子をナイル川に連れて行くというものでした。しかし、それはファラオが出した命を奪うためにナイル川に投げ込むという命令に従うことではありませんでした。そうではなく、愛する息子の命を救うためにナイル湖畔へと置いたのでした。

その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、 そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。

(聖書 出エジプト記 2:4-5 新共同訳)

 そこにやって来たのは、ファラオの王女でした。自分たちを苦しめる命令を出したエジプト側の人間です。見つかってしまったら命はないかもしれません。

しかし、母は神様が道を備えてくださるという信仰をもって、このファラオの王女が水浴びをする場所に息子を置いたのでした。

 これを通して、エジプトからイスラエルの民を救うための一歩が踏み出されました。

「神を畏れる」

虐待によってイスラエル人の勢力を弱めようとしたエジプトでしたが、彼らは増える一方でした。

 そこで、エジプト王は恐ろしい計画を実行に移しました。

エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」 (聖書 出エジプト記 1:1516  新共同訳)

 生まれたそばから男児の命を奪う。これが、エジプトの作戦でした。将来戦力となりうる男児の命を奪うことで、イスラエルの力を弱めることができるからです。

 その計画を実行するにあたって、出産に立ち会う人間に殺害命令を出しました。しかし、この役割を命じられた2人は、命令に従うことはしませんでした。理由は明確でした。

助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。 (聖書 出エジプト記 1:17 新共同訳)

 この2人は神様を畏れ敬う人たちでした。エジプトの王に逆らうことで自分たちも命の危険にさらされることがあるかもしれません。しかし、この2人が畏れたのは、エジプト王ではなく神様でした。

しかし、命令に反したことを隠すことはできません。当然、エジプト王の知るところとなりました。

 エジプト王は彼女たちを呼びつけて問いただした。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」助産婦はファラオに答えた。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。民は数を増し、甚だ強くなった。 助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。

(聖書 出エジプト記 1:18-21 新共同訳)

 神を畏れる2人は、神様の知恵によってこの難局を切り抜け、ヘブライ人の命を救ったのでした。そして、神様はこの2人をも大きく祝福されました。

 人間ではなく、神様を畏れる歩みによって、大きな祝福が与えられた出来事でした。

「増え広がる」

 エジプト内に住むイスラエルという民族の繁栄に脅威を感じたエジプト側は、迫害をすることでこの民族をコントロールしようと試みました。

しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、イスラエルの人々を酷使し、粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた。(聖書 出エジプト記 1:1214 新共同訳)

勢力を弱めるために虐待を始めたはずが、何故か彼らはそれに比例してどんどんと増え広がっていきました。

虐待すればするほど繁栄する状態には、さすがにエジプトとしても苛立ちを隠せない状況になります。そこで、イスラエル人に対する迫害は更に大きなものへとなっていきました。

日陰のない場所で、朝から晩まで働かされる状況は、本当に過酷な状況だったことと思います。

しかし、たとえどんな状況に追い込まれても彼らが増え広がり続けていたことからも、神様が共にいて彼らを導いてくださっていることを感じることができます。

2世紀末頃に弁証家が「キリスト者の血は種である」という言葉を残しました。これは、迫害されて血が流れても、キリスト教を根絶やしにすることができなかったことをよく表している言葉です。

神様に従う歩みには、確かに困難があるかもしれません。しかし、同時にそこには確かに神様が共におられ、導いてくださいます。

 たとえ迫害が大きくても、労働環境が厳しくなって酷使されたとしても、イスラエルの人々は完全に根絶やしになることはありませんでした。  しかし、エジプトは更なる作戦へと移ります

「繁栄と迫害」

エジプトで大きな地位を得たヨセフさんとその兄弟たちは年老いて眠りにつきました。

それでもどんどん繁栄が続き、イスラエル人のコミュニティは大きくなっていきました。

 しかし、この異国の地における繁栄が火種となり、大きな試練の時がやってくることになりました。

そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」(聖書 出エジプト記 1:8-10  新共同訳)

イスラエル人の繁栄は、神様の約束であり、大きな祝福のあらわれでした。しかし、エジプトの王からすると、その繁栄は自国に牙をむく勢力になりかねないという危機を感じるものでありました。

こうして、ヨセフさんを通して築き上げられたイスラエル人とエジプト人の友好関係に終止符が打たれることとなりました。

エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した。(聖書 出エジプト記 1:11  新共同訳)

神様に従う歩みは大きな祝福となります。しかし、サタンの勢力にとって、その繁栄は決して面白くないものであり、全力で阻止しようと攻撃してきます。まさにイスラエルの人々は、そのような状況に追い込まれ始めたのでした。

私たちも、神様に従う歩みをする時、サタンの攻撃の大きさを感じることがあります。信仰を持ち、神様のみ言葉に聞き従う時、それがより大きなものであると感じるかもしれません。

しかし、神様は、ご自分に信頼して従う者を決してお見捨てにはなりません。この後、イスラエルの人々はエジプトの地で奴隷の身分となっていきますが、神様はそこに1人の指導者を立て、そこから救い出す計画を持っておられました。