「聖なる方」

羊の群れを世話していた時、柴が燃えているのに燃え尽きない不思議な光景を見てそちらの方に進んで行ったモーセさんは、更に不思議な体験をすることとなりました。

主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」(聖書 出エジプト記 3:4-5 新共同訳)

 燃えているのに燃え尽きない不思議な場所から、モーセさんを呼ぶ声がしました。その声の主は、神様でした。神様は、モーセさんに足から履物を脱ぐようにと言われました。

当時はサンダルを履いて歩いていましたが、外を歩くと砂ぼこりなどで汚れてしまいます。同じように、私たちは心の面でも色々な不純物で満ちています。そのような汚れたままで神様のおられる聖なる場所に踏み入ることはできません。

 神様は、まず履物を脱ぐようにと言われました。そして、今度は御自分が誰であるかを明かされました。

神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。

(聖書 出エジプト記 3:6 新共同訳)

神様は、モーセさんの先祖たちの名前を挙げ、ご自分がどのような神であるかを告げられました。それは、モーセさんが幼かりし頃に母親から教えられ、自分が今身を寄せている家族と共に礼拝している神様からの声でした。

 天地を造られ、罪に陥った人類を救うために歴史を通して先祖たちに語り掛け、関わってこられた神様が、今、モーセさんの目の前に現れたのでした。

 罪人は、その履物を脱がなくてはならないほど聖なるお方のことを見ることができません。モーセさんはその神様を畏れ敬いつつ、顔を覆いました。

 神様は聖なるお方であり、そのおられる所は聖なる所です。そして、罪人にはその栄光がまぶしすぎて見ることはできません。

 それだけ偉大なお方であるにもかかわらず、私たちの神様は人間のそば近くまで来て語りかけてくださいました。それが、神が人となられたイエス・キリストというお方です。

「いつもの道をそれて」

モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。(聖書 出エジプト記 3:1 新共同訳)

家庭を持ち、羊飼の世話をしながら平和な生活を送っていたモーセさんは、いつものように羊の世話をしながら移動していました。しかし、この日はいつもと違うことに気が付きました。

そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。 (聖書 出エジプト記 3:2 新共同訳)

 モーセさんは、茂みに火がついて燃えているのを見つけました。しかし、何故燃えているのかもわからず、何故燃えているのに茂みや木々や枝が燃え尽きないのかもわからないという不思議な光景が広がっていました。

 そんな中、燃えていて危険だから消火するわけでもなく、気味が悪いから逃げるわけでもなく、モーセさんはこんな行動に出ました。

モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」(聖書 出エジプト記 3:3 新共同訳)

 何故こうなっているのかはわからないけれども、道をそれてそこに行って見届けよう。これがモーセさんがとった行動でした。

 何十年もやってきたいつもと変わらない羊の世話をしていたモーセさんに、突然現れた変化でした。

 彼は、いつもと違う変化に対し、いつもの道をそれてその不思議へと向かいました。このようにして、モーセさんは炎の中におられた主の御使いに導かれて神様からの大切な使命を聞くための一歩を踏み出したのでした。

 私たちもいつもと変わらぬ日常を送る中に、神様からのしるしが与えられることがあります。

 モーセさんのように神様の招きに従い、いつもの道をそれてそこに行ってみる時、そこには大切なしるしがあるかもしれません。

「約束は忘れない」

モーセさんは、エジプトの地からイスラエルの人々を救うために神様から選ばれた指導者でした。

 しかし、救出する使命に燃えつつも同胞からの理解を得ることができず、エジプトの地にも居場所がなくなってしまいました。そして、荒れ野で羊飼いとしての平和な生活が始まりました。

この時点では、モーセさんは完全に使命を達成することに失敗したかのように思えます。モーセさん自身もそのことについて日々思いめぐらしていたと思います。

 しかし、今のモーセさんには地位や権力もなく、ただただ年老いていくのみというのが現実でした。

 そして、人間的に考えればこれで終わってしまうのだろうと思えるほどの年月が経ちました。

 そう思える状況の中でも、神様は決して約束を放棄したり忘れたりなさることはなく、しっかりとイスラエルの人々のことを覚えておられました。

それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。 (聖書 出エジプト記 2:23-25 新共同訳)

 この時、モーセさんが隠居生活を始めてから既に40年の月日が経っていました。モーセさんの年齢は、人間の人生で言えばもうそろそろ終わりが見えてくるような年齢です。地位や権力に加えて、体力までも失ってしまったモーセさんでした。

では、神様はどのようにしてこの救済計画を実行されたのでしょうか。ここから始まる神様の御計画は、またしても人間の理解を遥かに超えるものでした。

「転身」

井戸で羊飼いに追い払われてしまったところをモーセさんによって助けられた娘たちは、祭司である父のもとに行ってこの出来事を話しました。

 エジプト人から助けられたと聞いた父は、それがどのような人物であるかはわからなかったことと思いますが、娘たちに次のように命じました。

父は娘たちに言った。「どこにおられるのだ、その方は。どうして、お前たちはその方をほうっておくのだ。呼びに行って、食事を差し上げなさい。」

(聖書 出エジプト記 2:20 新共同訳)

 何の計画もなく、とにかくエジプトの地から逃げて来たモーセさんでしたが、この招待によって人生の転機がおとずれました。

モーセがこの人のもとにとどまる決意をしたので、彼は自分の娘ツィポラをモーセと結婚させた。彼女は男の子を産み、モーセは彼をゲルショムと名付けた。彼が、「わたしは異国にいる寄留者(ゲール)だ」と言ったからである。(聖書 出エジプト記 2:2122 新共同訳)

 モーセさんはエジプトでの華やかで地位や権力を持った王宮生活から一転、羊飼いとしての質素な生活が始まりました。

 そんな中でも、モーセさんはそこで結婚をし、子どもを授かりました。

 何よりも、エジプトでの異教の神々にかこまれる生活から、真の神を礼拝する家庭へと身をおくことになったことは、モーセさんにとって大きな益となりました。

 そして、これも神様の御計画でした。

「助けたことが報われる」

ファラオはこの事を聞き、モーセを殺そうと尋ね求めたが、モーセはファラオの手を逃れてミディアン地方にたどりつき、とある井戸の傍らに腰を下ろした。

(聖書 出エジプト記 2:15新共同訳)

同胞からの不信、エジプト人からの不信という居場所を失う状況に際し、モーセさんはとにかく自分の身を守るために逃げ出しました。

 そして、たどり着いたのがミディアンという地でした。その地方には、モーセさんと同じように真の神を礼拝する人たちが住んでいました。

さて、ミディアンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちがそこへ来て水をくみ、水ぶねを満たし、父の羊の群れに飲ませようとしたところへ、羊飼いの男たちが来て、娘たちを追い払った。モーセは立ち上がって娘たちを救い、羊の群れに水を飲ませてやった。

(聖書 出エジプト記 2:1617 新共同訳)

 ミディアンの祭司というのは、まさにモーセさんと同じ神様に仕える家族でした。その7人の娘たちは羊飼いとして羊の世話をしていました。

 モーセさんが井戸で休憩していたところ、男性の同業者に追い払われて困っている彼女たちの姿が見えました。

 エジプトの地では、良かれと思って人助けをしたことが全く理解を得られず、そのせいでここに逃げてくることになったという苦い思いがあったことと思います。しかし、モーセさんはこの困っていた祭司の娘たちを助けました。

 無事に羊の群れが水を飲むことができた後、モーセさんに助けられた娘たちは祭司である父にこのように報告しました。

彼女たちは言った。 「一人のエジプト人が羊飼いの男たちからわたしたちを助け出し、わたしたちのために水をくんで、羊に飲ませてくださいました。」

出エジプト記 2:19

 モーセさんはエジプトから着の身着のまま逃げて来たので、エジプト人に見られたわけですが、彼女たちからすると「まさかエジプト人が助けてくれるなんて」という驚きもあったことと思います。

そんな中でも、「この人は私たちを助けてくれた」と、今回はモーセさんの思いがしっかりと理解され、感謝されたのでした。