クリスチャンにとって、「毎日聖書を読むこと」はとても大切なことです。毎日聖書を読むことで、その日の自分に必要な糧を受けることができます。しかし、聖書を読み続けていると、難しい箇所・あまり聞き慣れないカタカナの名前が延々と続く箇所など、読み進めるのに忍耐力を求められることもしばしばあります。
そのような「壁」に突き当たったとき、「意味が良く分からない」と投げ出してしまうのか、諦めずに読み続けるのかが、ひとつの分岐点になるような気がします。私自身、この分岐点でストップしてしまったことが何度もありました。
「理解できない」ということは不安です。「理解できないのに読み続ける」というのは無意味に思えます。しかし、本当に「理解できないこと」=「無意味」なのでしょうか?
「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」
(新約聖書・ヨハネによる福音書13:7 新共同訳)
これは、ペテロの足を洗おうとしてイエス様が言われた言葉です。そしてこの言葉は、時代を超えてすべての人に語りかけられるイエス様の約束でもあるように思います。
「いま、あなたはわたしがしたこと(十字架の死)の意味が分からないだろう。そのことについて書かれた聖書の言葉を理解できないかもしれない。でも、後で(あなたの人生の一番ふさわしいときに)分かるようになるだろう」
この言葉をイエス様からの約束と思えたとき、理解できない聖書の言葉に突き当たっても、それほど気にならなくなりました。聖書の言葉の意味も、わたしの人生に起きる様々な理解不能な出来事も、「そういうことだったのか!」と心から理解することが出来る日が来るのです。このイエス様の約束に励まされて、今日という日を生きていこうと思います。
セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋