「慰め」や「励まし」について、考えさせられることがあります。
私たちは、自分が苦しみの中にあるときは「誰かに慰めて欲しい」と思いますし、誰かが苦しんでいるときには「何とかして慰め、励ますことはできないか」と考えます。
しかしどうでしょうか。私が苦しみの渦中にあったとき、慰めようとしてくれた人の親切を、素直に受け取ることが出来なかったことがしばしばありました。また誰かを「慰めたい」と思っているのに、なかなかその人の気持ちに沿うことができず、かえって傷つけてしまったことさえあったように思うのです。
人が人を「慰め」「励ます」というのは、実に難しいことだと実感させられます。
「慰め」ということについて、聖書には次のような言葉があります。
神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
コリントの信徒への手紙2・1:4
この聖書の言葉は私たちに、二つの大切なことを教えています。
- 神はあらゆる苦難に際して私たちを慰めてくださる、ということ。
- 私たちも「神からいただく慰め」によって、苦難の中にある人々を慰めることができる、ということ。
何と素晴らしい約束でしょうか!?
「私の中から出る慰め」は人の心に力を与えることが出来ません。しかし、「神様からいただく慰め」には限界がないのです。どんな苦難の中にある人の心にも伝わり、慰める力があるというのです。
この聖書の約束を信じ、まず私自身が神様からの“この慰め”をしっかり受け取る者になりたい、と願っています。
セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋