エジプト内に住むイスラエルという民族の繁栄に脅威を感じたエジプト側は、迫害をすることでこの民族をコントロールしようと試みました。
しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、イスラエルの人々を酷使し、粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた。(聖書 出エジプト記 1:12–14 新共同訳)
勢力を弱めるために虐待を始めたはずが、何故か彼らはそれに比例してどんどんと増え広がっていきました。
虐待すればするほど繁栄する状態には、さすがにエジプトとしても苛立ちを隠せない状況になります。そこで、イスラエル人に対する迫害は更に大きなものへとなっていきました。
日陰のない場所で、朝から晩まで働かされる状況は、本当に過酷な状況だったことと思います。
しかし、たとえどんな状況に追い込まれても彼らが増え広がり続けていたことからも、神様が共にいて彼らを導いてくださっていることを感じることができます。
2世紀末頃に弁証家が「キリスト者の血は種である」という言葉を残しました。これは、迫害されて血が流れても、キリスト教を根絶やしにすることができなかったことをよく表している言葉です。
神様に従う歩みには、確かに困難があるかもしれません。しかし、同時にそこには確かに神様が共におられ、導いてくださいます。
たとえ迫害が大きくても、労働環境が厳しくなって酷使されたとしても、イスラエルの人々は完全に根絶やしになることはありませんでした。 しかし、エジプトは更なる作戦へと移ります