アブラハムのもとに三人の来客が訪れました。彼らはアブラハムに対して、良い知らせと悪い知らせを持ってやってきました。良い知らせは、この老夫婦に子どもが生まれるという祝福の言葉でした。しかし、悪い知らせは、甥のロトさんが暮らすソドムの町があまりにも罪深い状態であるため、滅ぼされるという知らせでした。
このソドムに対する宣告を聞いたアブラハムさんは神様に対してこのように言いました。
「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が
五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」(聖書 創世記18:23∼25 新共同訳)
もし、あの荒れ果てた町に少しでも正しい人がいるなら、滅ぼさないでください。そのような願いでした。
滅ぼさないということは、その少しの正しい人たち以外の悪いことをしていた人たちも同じように助かるということです。悪いことをしているのだから、その人たちは滅んでしまってもいいのではないかと思う人もいるかもしれません。
何故アブラハムさんは、「正しい人たちだけ助けてください」ではなく、「正しい人がいるなら町を滅ぼさないでくさい」と願ったのでしょうか。
それは、アブラハムさんが、「罪人」を愛する気持ちがあったからです。アブラハムさんは、「罪」という行為を許容することも肯定することもしませんでした。しかし、そこに陥ってしまっている「罪人」のことを覚え、その人たちが救われることを心から祈ったのでした。
これは、神様がもっておられる考えそのものでした。神様は、「罪」は憎まれます。しかし、「罪人」である私たちのことは心から愛してくださっています。そのために、独り子であるイエス・キリストを十字架につけてくださいました。
私たちもそのように神様から愛されている存在です。