ある本に次のように書かれていました。
「長い間人の死を看取っている方から『農業とか自然を相手にしてきた人の最期は、とても穏やかなお顔をしておられる』と言われたのを聞いて、なるほどと思った…。こうした人々は、自然といういつも自分の力を超えた大きな力、すなわち勝てないものを相手に生きてきたゆえに、一つの品性がその身に宿るのであろう。…私たちは“勝ってはならない”相手に勝ってしまっているのではないかと反省してみる必要がある。」
(藤木正三・工藤信夫『福音はとどいていますか』218ページ)
実に考えさせられる言葉でした。
私たちは弱さよりも強さを、支配されることよりは支配することを、そして負けるよりは勝つことを好みます。しかし、「勝てないものを相手にする」とき、私たちは己の限界を知り、そのことのゆえに謙虚さを学ぶことができるのかもしれません。
神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
(旧約聖書 伝道の書3:11 口語訳)
先日、教会の前を通りかかった方からこんな言葉をいただきました。「私はクリスチャンではありませんが、夜、教会の前を通ると輝いている十字架に心が和ませられることがあります。」その言葉を聞いて私は嬉しい気持ちになりました。そして、十字架は私たち人間に、人間を超えた存在があることを指し示す力があるのだということを改めて教えられました。
セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋