今週、私たちの教会では春の祈祷週がもたれました。毎日色々な場所に集まって祈り、信仰のリバイバル(復活・再生)について学びました。人間には感情のアップダウンがあります。何かに熱心に取り組んでいたかと思えば、熱が冷めて投げ出してしまうことがあります。情熱的な付き合いをしていたカップルが、疎遠になってしまうこともあります。私たちと神様の関係も、信仰に入ったとき、内に熱く燃えるものがあったはずなのに、今ではすっかりマンネリ化してしまっている…。と失望させられることがしばしばあります。祈祷週の読み物に、次のような文章がありました。
「リバイバルとは、霊的生命の再生、理性と心の能力の向上、霊的死からの復活を意味する」(『Review and Herald』Feb 25, 1902)。リバイバルは、単にそれについて読むときに起こるのではなく、聖書の教えるリバイバルの要素を実践するときに起こります。新約聖書の教会は祈りと聖書研究、証を通して、イエスとの生きた経験を持ち続けました。
(『信仰のリバイバルをめざして』20ページ)
マンネリ化し、命を失ってしまったものが、もう一度息を吹き返すことが出来るのでしょうか?
預言者エゼキエルが枯れた骨で満ちた谷に立たされたとき、神様から問われました。「これらの骨は生き返ることができるか?」彼は「主よ、あなただけがご存じです」と答えました。それに対する神様の言葉は次のようなものでした。
「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」
(旧約聖書 エゼキエル37:1~5 新共同訳)
神の言葉によって、命の息が吹きこまれるとき、命を失っていたものが生き返る。それが神様の約束です。命の言葉である聖書から、日々神様の命を受け取り続けたいと願っています。
セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋