「慰め」と「励まし」

悲しみ、傷ついて力を失っている人を前にして、何もすることが出来ずに、自分の無力さに途方に暮れさせられることがしばしばあります。

作家の五木寛之さんが、その著書『大河の一滴』の中で次のように書いておられます。

孤立した悲しみや苦痛を激励で癒すことはできない。そういうときにどうするか。そばに行って無言でいるだけでもいいのではないか。その人の手に手を重ねて涙をこぼす。それだけでもいい。深いため息をつくこともそうだ。熱伝導の法則ではないけれど、手の温もりとともに閉ざされた悲哀や痛みが他人に伝わって拡散していくこともある。

(五木寛之『大河の一滴』258ページ)

本当は「慰め」を必要としている人を、何とかして「励まそう」と躍起になってしまい、かえって傷つけてしまうという失敗をどれほど繰り返しただろうかと思います。でも、そのような場面で本当に必要とされているのは「何かをすること」よりも「共にいること」なのかもしれません。

聖書には次のように書かれています。


 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

(新約聖書 ローマの信徒への手紙12:15 新共同訳)


福音書を読むと、イエス様が貧しい人・病気の人たち・社会から見放された人たちに寄り添い、彼らを深く憐れまれた様子が繰り返し記録されています。イエス様は一人ひとりを大切にされました。そして、彼らの苦しみや悲しみに目を留められて、深く憐れまれました。

日々、イエス様とつながることによって、イエス様に似た者へと作り変えていただきたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋20161119%e6%85%b0%e3%82%81%e3%81%a8%e5%8a%b1%e3%81%be%e3%81%97

※写真は、山梨県富士河口湖町新道峠からの富士山です(11月13日撮影)。