情熱を込めて取り組んでいたものがあったのに、いきなりうまくいかなくなってしまった。
突然降りかかって来る、自分自身や家族の怪我や病気。
怠けているわけではない。むしろ、一生懸命前に進もうとしているのに、不可抗力のトラブルによってこれ以上進むことが出来なくなってしまった…。
わたしたちの人生には、突然、「止まれ」という標識を突きつけられるようなことが起こります。
詩篇46篇10節(新共同訳聖書では11節)の言葉を、3つの訳で見比べると、同じ言葉にも様々なニュアンスがあることが分かります。
- 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」(新改訳聖書)
- 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(口語訳聖書)
- 「力を捨てよ、知れ/わたしは神。」(新共同訳聖書)
神様はときに、「やめよ」と言われます。人生の歩みを止められるとき、私たちは自分の「力を捨てる」ことを求められます。それは不本意なことであり、不安なことであり、痛みの伴うことでもあります。しかし、「力を捨て」「静まる」ときに、はじめて神を知ることが出来るのだと聖書は言うのです。
道路を通行していて「止まれ」の標識に従わないことは非常に危険なことです。自分が傷つくかもしれませんし、誰かを傷つけてしまうかもしれません。一旦止まって左右を確認することが必要です。
同じように、私たちも人生の歩みの中で、突如あらわれた「止まれ」の標識にとまどうようなとき、力を捨て、心を静めて神様に心を向けてみたいと思うのです。
セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋