リオデジャネイロで開催されたオリンピックが終わりました。連日の熱戦をTVで観戦・応援して寝不足だったという方もおられるのではないでしょうか。
アスリートたちが目標に向かって努力を重ね、力の限りを尽くして競い合う姿には、心動かされるものがあります。選手一人一人に様々なドラマがありました。その陰には気が遠くなるほどの努力や、多くの人たちのサポートがありました。
聖書の時代にもスポーツは人々の身近なものだったようです。次のように書かれています。
あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 9:24,25 新共同訳)
パウロがここで言っている「朽ちない冠」とは、終わりの時の裁きを経て、神様から与えられる永遠の命のことです。オリンピック選手よりも厳粛で、重みのあるもののために、私たち一人一人も、それぞれのレースを「走っている」のだとパウロは言うのです。
選手たちが目標を目指して真剣にトレーニングを重ねるほどに、私たちも永遠の命に向かって真っすぐに歩んでいるでしょうか。「朽ちない冠を得るために」今日という一日を、しっかりと生きたいと思います。
セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋