先日、高尾山登山をした帰り道のことです。川の流れのそばに生えている紫陽花は元気に花を咲かせていましたが、川から少し離れた場所の紫陽花は、しおれかけていました。
今年の関東地方は空梅雨でした。雨が少ないと紫陽花も元気を失います。しかし、そんな中でも、流れのほとりの紫陽花には力強い生命力が感じられました。
次の詩編の一節が思い出されました。
いかに幸いなことか…主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
(旧約聖書 詩編1:1~3節 新共同訳)
私たちは今、何に根をおろして生きているでしょうか。どこから命の糧を得ようとしているでしょうか。
聖書は、イエス・キリストこそが決して枯れることのない命の水の源であると教えています。この水から離れるとき、私たちは日照りにやられた紫陽花のように生気を失ってしまうのです。
魅力的に目に映る物が次々と現れては消えてゆくこんな時代にあっても、決して変わることのない、「イエス・キリスト」という水の源、川の流れのほとりに根をおろして生きる者でありたい、と願っています。
セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋