もっと自分に恥じぬ生き方をしたいのに、同じような失敗を繰り返し、自己嫌悪に陥ってしまうことがありませんか?
キリスト教主義の高校で、学校付き牧師をしていたときのことです。多くのの生徒と出会い、楽しい思い出もたくさん出来ましたが、自分の悩みと正面から向き合っていた生徒たちの姿が、今も心に強く焼き付いています。
今、自分がすべきことは希望する進路に進むため、毎日コツコツと努力を重ねることだと自分が一番分かっているはずなのに、ついつい悪ふざけをして、学校生活を続けることが出来なくなってしまい、悔し涙を流していた生徒。
両親が必死に働いて自分を学校に送ってくれているのに、目標を見失ってしまい、両親の期待に応えることが出来ずにいる自分を許せなくて、苦しんでいた生徒。
今の自分の状態を何とかして改めたいと、必死にもがきながらも、なかなか古い自分から抜け出すことが出来ずに、もがく生徒たちの姿を見るのは辛いことでしたが、自分の弱さと真剣に格闘している彼らの姿はかけがえのないほどに尊く、神聖なものに感じられました。
イエス・キリストが「山上の説教」の中で語られた言葉は逆説的で、一見すると理解しがたく思えるのですが、悩み苦しみ、悔し涙を流す生徒たちの姿を見たときに、この言葉の意味が少し分かったような気がしました。
義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
(新約聖書 マタイによる福音書5:6 新共同訳)
自分の内に「義」がないことを知り、「飢え渇き」をもってそれを探し求める人を「幸いだ」とイエス・キリストは言われました。「苦しみながらも、あなたが諦めずに求め続けるならば、あなたは必ず満たされる」という約束です。悩み苦しんでいたかつての生徒たちが成長して、自分の道を立派に歩んでいる様子を伝え聞くとき、心励まされる思いがします。
セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋
※写真は府中郷土の森公園です。