叱ってくれた先生

神学校を卒業して数年後のことでした。母校の宗教週間(招かれた講師が1週間、朝夕の集会で聖書のお話をする行事)でお話をさせていただく機会がありました。学生や恩師の先生方の前でお話をするというのは、私には荷が重く感じられ、緊張の連続でした。

一日目、二日目…ガチガチに緊張して、冷や汗をかきながら壇上に立ち、何とか用意した原稿をただ読むだけで時間が過ぎて行きました。集会が終わると、ある先生が厳しい表情で私のところにやってきました。

「緊張するのは分かるけど、もっと学生の顔を見て話してくれ。せっかく大切なことを話しているのに、それじゃ伝わらないぞ!」

そのときの私には、正直言ってとてもきつい言葉でしたが、そのときの私が最も必要としている言葉でもありました。そのようなアドバイスをするというのは、先生にとっても辛く言いにくいことだったでしょう。しかし、本当に私のためを思ってこのような率直なアドバイスをくださったあの先生に、今も感謝しています。そして、今でもときどきこの先生の顔とアドバイスの言葉が心の中に思い出されます。

「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。

(新約聖書 ヘブライ人への手紙12:5~7 新共同訳)

行き詰まりや試練の中で途方に暮れる経験こそが、神様が愛を持って私たちを鍛え、育んでくださる時なのかもしれません。桜の花が開花するためには厳しい冬の寒さが必要だと言われます。それと同じように、私たちそれぞれが神様から受け取っているものを開花させるために、与えられている鍛錬を、信じて耐え抜く者でありたいと思います。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

KC4I0044

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