今週、2人の方の葬儀に出席する機会がありました。葬儀には、故人の生きてこられた歩みが凝縮されていると常々感じています。私は故人の人生の歩みのすべてを知っているわけでは決してありません。しかし、そこに集まった人たちの言葉や思い、流される涙、そして長年の歩みの中で刻まれてきた年輪のようなものが、その方の命の重みとして伝わってくるのを、葬儀に出席する度に感じます。
「一生を終えてのちに残るのは、我々が集めたものではなくて、我々が与えたものである」(ジェラール・シャンドリ)
これは、クリスチャン作家の故・三浦綾子さんが、その作品『続・氷点』の中で紹介している言葉です。「集めたものではなく、与えたものこそが残る」とは、実に考えさせられる、人生の真実を切り取った言葉であると思います。
葬儀に出席する度に、この言葉が心の中に思い出されます。故人が遺されたものを自分は受け取っただろうか?そして、自分は「集めること」より「与えること」に、心を用いて生きているだろうか?と考えさせられます。
朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか/それとも両方なのか、分からないのだから。
(旧約聖書 コヘレトの言葉11:6 新共同訳)
聖書は私たちに「種を蒔け」と語りかけています。あなたは今、どんな種を蒔いて生きておられるでしょうか?
大切な方としばしのお別れをされたご遺族の上に、イエス様からの慰めと平安が豊かに注がれますように、心よりお祈りいたします。
セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋
※早春の海。茨城県日立市小貝浜で。(撮影:伊藤穣)