姦通の現場に踏み込まれ、捕えられた女性がイエス様のところに引きずり出されました。人々はイエス様を訴える口実を得ようとして、「律法ではこのような女は石で打ち殺せと言われているが、あなたはどう考えますか?」と迫りました。
誰かの隠されていた悪事や不祥事が白日のもとにさらされるとき、私たちは自分自身を裁判官であるかのように思い込み、その人を非難・攻撃します。2000年前のユダヤの人々も、現在の私たちも、人間の本質は変わらないのだと強く感じます。
イエス様はそんな彼らにこうお答えになりました。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
(新約聖書 ヨハネによる福音書8:7 新共同訳)
そのとき、イエス様は地面に何かを書いておられました(エレン・ホワイトは、訴えてきた人々の隠された罪をそこに書いておられた、と述べています)。訳知り顔で誰かを断罪し、非難するとき、私たちは自分の犯してきた罪を忘れています。しかし自分自身も人知れず罪を犯し、過ちを繰り返してきたことを思い返すとき、自分には誰かに石を投げる資格はないのだという事実を突きつけられるのです。
誰かに対して、思わず石を握りしめてしまうようなとき、先のイエス様の言葉を思い出し、「私のこの手は、誰かに石を投げるためにあるのか?それとももっと他のことをするためにあるのか?」と、考えてみたいものです。
セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋
※雪の朝。八王子市つどいの森公園で。