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「上に立てられる」

 目のかすんできていたヤコブさんによって祝福を受けたヨセフさんの2人の息子マナセとエフライムでしたが、その祝福の際にヨセフさんにとって不満を感じる出来事が起こっていました。

ヨセフは二人の息子のうち、エフライムを自分の右手でイスラエルの左手に向かわせ、マナセを自分の左手でイスラエルの右手に向かわせ、二人を近寄らせた。イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。

(聖書 創世記 48:1314 新共同訳)

 祝福の際に右手を長男のマナセさん、左手をエフライムさんに置いてもらうはずでした。しかし、ヤコブさんは何故かその手を逆に置いたのでした。

それに対してヨセフさんは不満を抱きました。

ヨセフは、父が右手をエフライムの頭の上に置いているのを見て、不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。ヨセフは父に言った。「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください。」

(聖書 創世記 48:1718 新共同訳)

長男に長男としての祝福を与えてほしいと思うのは父であるヨセフさんからするとあたりまえのことだったと思います。また、もしかすると目がかすんでいたので間違ってしまったと思ったかもしれません。

しかし、この出来事は間違いではなく、確かに祝福を与えるヤコブさんの意図したことでした。

ところが、父はそれを拒んで言った。「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる。」その日、父は彼らを祝福して言った。「あなたによって イスラエルは人を祝福して言うであろう。『どうか、神があなたを エフライムとマナセのように してくださるように。』」 彼はこのように、エフライムをマナセの上に立てたのである。(聖書 創世記 48:19-20 新共同訳)

このような理由から、兄ではなく弟が上に立てられました。そして、エフライムさんの子孫は実際にこの後大きな役割を担っていくこととなりました。

振り返ると、ヤコブさんも兄から長子の特権を奪い、ヨセフさんも兄たちがひれ伏す存在となりました。その中にはドロドロとした人間関係がありました。しかし、神様の御計画の中でそれらが導かれてきたのでした。

「目がかすんでいても」

 死期が迫っていることを悟り、ヨセフさんに対して遺言を伝えたヤコブさんでしたが、その後再びヨセフさんを自分のもとへ呼ぶこととなりました。

これらのことの後で、ヨセフに、「お父上が御病気です」との知らせが入ったので、ヨセフは二人の息子マナセとエフライムを連れて行った。  (聖書 創世記 48:1新共同訳)

 147歳という高齢であり、病気を患ったことで本当に死期が近づいたことを感じていたことと思います。ヨセフさんは、そんな父親のもとに2人の息子を連れてお見舞いに向かいました。

 そこで、父からあるお願いをされました。

今、わたしがエジプトのお前のところに来る前に、エジプトの国で生まれたお前の二人の息子をわたしの子供にしたい。(聖書 創世記 48:5新共同訳)

 ヤコブさんは、2人の孫を養子にしたいと申し出ました。この2人の孫は、ヨセフさんがエジプトで結婚をして授かった子どもでした。つまり、イスラエル人の血とエジプト人の血をひいているわけです。

 本当であれば、この2人の孫はこの後エジプト人として高い地位を受けていくことができるはずでした。しかし、ヤコブさんは、神様に祝福されたイスラエルの家系にこの2人を招き入れたいと願いました。また、それは何よりも父ヨセフさんの願いでもありました。

イスラエルは、ヨセフの息子たちを見ながら、「これは誰か」と尋ねた。 ヨセフが父に、「神が、ここで授けてくださったわたしの息子です」と答えると、父は、「ここへ連れて来なさい。彼らを祝福しよう」と言った。 イスラエルの目は老齢のためかすんでよく見えなかったので、ヨセフが二人の息子を父のもとに近寄らせると、父は彼らに口づけをして抱き締めた。 (聖書 創世記 48:810 新共同訳)

 イスラエル、つまりヤコブさんは、この2人の息子を祝福する際、老齢のため目が良く見えない状態になっていました。まさに、自分が騙した父親のイサクさんと同じような状況にありました。2人の孫がエジプト人として高い地位を求めて生きたいと願ってこの申し出を良く思わなければ、騙すこともできたかもしれません。

しかし、ヨセフさんとその2人の息子は、目の良く見えないヤコブさんを騙すことなく、神様に従う生き方を選んでいったのでした。

「必ず連れ戻す」

神様に行きなさいと言われて移住したエジプトの地において、ヤコブさんは多くの祝福を受けました。

イスラエルは、エジプトの国、ゴシェンの地域に住み、そこに土地を得て、子を産み、大いに数を増した。ヤコブは、エジプトの国で十七年生きた。ヤコブの生涯は百四十七年であった。 (聖書 創世記 47:27-28 新共同訳)

 失ったと思っていた愛する息子との再会、そして、更には飢饉という状況においても神様の守りの中でどんどん繁栄していきました。

 しかし、ヤコブさんも年老いてこの世での歩みも終わりが見えてきました。

イスラエルは死ぬ日が近づいたとき、息子ヨセフを呼び寄せて言った。「もし、お前がわたしの願いを聞いてくれるなら、お前の手をわたしの腿の間に入れ、わたしのために慈しみとまことをもって実行すると、誓ってほしい。どうか、わたしをこのエジプトには葬らないでくれ。わたしが先祖たちと共に眠りについたなら、わたしをエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってほしい。」 ヨセフが、「必ず、おっしゃるとおりにいたします」と答えると、「では、誓ってくれ」と言ったので、ヨセフは誓った。イスラエルは、寝台の枕もとで感謝を表した。(聖書 創世記 47:29-31 新共同訳)

 ヤコブさんの遺言は、自分が死んだらエジプトの地ではなく、先祖と同じ場所に葬ってほしいというものでした。このお願いに対し、ヨセフさんは快く誓いをたてました。

ヤコブさんが神様からエジプトの地に行くようにと言われた時、神様はこんな約束をしておられました。

神は言われた。 「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。 わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」 (聖書 創世記 46:3-4 新共同訳)

 神様は、この子孫の繁栄と必ず連れ戻すという約束をしっかりと実現させてくださいました。

 神様は、今罪の世の中で生きてる私たちに対し、天の御国を用意してくださっています。キリストの十字架を信じ受け入れる人は、必ずそこに連れ戻して下さると約束してくださっています。

「安全な方法」

飢饉の中、ヨセフさんの政策により家畜と引き換えに食糧を得たエジプトの人々でしたが、それでも困難な状況は続いていました。

その年も終わり、次の年になると、人々はまたヨセフのところに来て、言った。「御主君には、何もかも隠さずに申し上げます。銀はすっかりなくなり、家畜の群れも御主君のものとなって、御覧のように残っているのは、わたしどもの体と農地だけです。どうしてあなたさまの前で、わたしどもと農地が滅んでしまってよいでしょうか。食糧と引き換えに、わたしどもと土地を買い上げてください。わたしどもは農地とともに、ファラオの奴隷になります。種をお与えください。そうすれば、わたしどもは死なずに生きることができ、農地も荒れ果てないでしょう。」(聖書 創世記 47:18-19 新共同訳)

 このままでは生活していくことができないと感じた人々は、それぞれ持っている農地とそこで働く農奴として買い取ってほしいと申し出ました。

 これまで通り普通に農家をやりながら飢饉で苦しむよりは、ファラオの支配下におかれつつも飢饉の中でも食べていくことができるほうがよいと考えたのでした。

 ヨセフさんは彼らの申し出を受け入れ、農地をその所有者ごと買い取りました。そこで、ヨセフさんはルールを決めました。

ヨセフは民に言った。「よいか、お前たちは今日、農地とともにファラオに買い取られたのだ。さあ、ここに種があるから、畑に蒔きなさい。 収穫の時には、五分の一をファラオに納め、五分の四はお前たちのものとするがよい。それを畑に蒔く種にしたり、お前たちや家族の者の食糧とし、子供たちの食糧としなさい。」 彼らは言った。「あなたさまはわたしどもの命の恩人です。御主君の御好意によって、わたしどもはファラオの奴隷にさせていただきます。」 (聖書 創世記 47:23-25 新共同訳)

 奴隷と聞くと、なんだか良くない印象を受けますが、この人たちにとってその買い取ってくれた所有者は命の恩人となりました。

 私たちは、イエス様の十字架によって代価を払って買い取られました。そして、私たちは、私たちを創造し、命を与えてくださり、生かしてくださっている私たちの所有者である神様に収入の十分の一をお返しします。

 私たちの永遠の命の恩人である神様に感謝をし、預かったものを大切に生きていける人生は、とても素敵な人生ですね。

「更なる飢饉」

長い間離れていたヨセフさんと兄弟家族は無事に再会を果たし、みんなでエジプトの地に移り住むことができました。

 この再会のきっかけとなった出来事は、王様が夢でお告げを受けた大きな飢饉というものでした。

 ヨセフさんの政策によってこの飢饉を乗り切っていたエジプトの国でありましたが、やはりこの飢饉はとても大きなものでした。

飢饉が極めて激しく、世界中に食糧がなくなった。エジプトの国でも、カナン地方でも、人々は飢饉のために苦しみあえいだ。(創世記 47:13 新共同訳)

飢饉に直面することで、経済的にも難しい状況が生まれます。そこで、エジプトの人たちからこんな声があがりました。

 エジプトの国にもカナン地方にも、銀が尽き果てると、エジプト人は皆、ヨセフのところにやって来て、「食べる物をください。あなたさまは、わたしどもを見殺しになさるおつもりですか。銀はなくなってしまいました」と言った。

(創世記 47:15 新共同訳)

このような大変な状況においても、神様に知恵を頂いたヨセフさんの政策はとても賢いものでした。

ヨセフは答えた。「家畜を連れて来なさい。もし銀がなくなったのなら、家畜と引き換えに与えよう。」

(創世記 47:16 新共同訳)

家畜という大切な財産まで手放さなければならないのかという一見酷な条件に思えてしまう提案でしたが、この後エジプトの人々がこの提案に従ってヨセフさんのところへ家畜を連れて来たということを考えると決して酷な条件ではなかったということがわかります。

 ヨセフさんは、国の指導者としてこの困難な状況において、誰かが得をして誰かが損をするという政策ではなく、国も国民も互いに助け合い、利益を得ていくことができるような政策を進めていきました。

神様から知恵を頂きながら物事を進めていくことの大切さをヨセフさんを通して学ぶことができる局面でした。