憂うつな表情をしているファラオの宮廷の役人に優しく声をかけたヨセフさんに対して、二人はこう答えました。
「我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいない」(聖書 創世記40:8 新共同訳)
どうやらこの2人は、それぞれに別の夢を見たようでした。そして、その夢には何か必ず意味があるんだと察しはしたものの、その夢が何を意味しているのか知ることができずに頭を抱えていたということでした。
そこで、ヨセフさんは憂うつな顔をしている二人に対してこのように言いました。
「解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください。」(聖書 創世記40:8 新共同訳)
私たちが歩む人生の中で、自分には解決できない、または解明することができないことが沢山あります。そして、そのような壁にぶつかった時、憂うつな表情になることがあります。
しかし、もっと悪い知らせは、この二人の役人が言ったように、「それを解き明かしてくれる人がいない」ということです。
「それっぽいこと」を言ってくれる人はいるかもしれません。しかし、それはどこまでいっても「それっぽいこと」でしかありません。
ヨセフさんは、この監獄を任された者として、夢の解釈として「それっぽいこと」を言って慰めることもできたかもしれません。
しかし、ヨセフさんは、「それっぽいこと」で慰さめることはしませんでした。そうではなく、ヨセフさんの持っていた答えは明確なものでした。それは、「解き明かしは神がなさる」ということです。
解明できない、解決できないことに関して、「それっぽいこと」を言って自分の株を上げるのではなく、それを解明される方がどなたであるかを指し示す。
自分ではなく、神様の栄光のために生きていたヨセフさんの生き様を見ることができる一幕でした。