月別アーカイブ: 2017年6月

わたしの心を知ってください。

6月25日(日)から、北アジア太平洋支部主催の研修に参加するためにAPIU(アジア太平洋国際大学:タイ)に滞在しています。これは昨年11月に続いての2回目の研修です。朝から夕方まで、英語とリーダーシップの授業が続き、「仲間との会話もすべて英語」というルールの中で17日間を過ごすのはきついものがありますが、懐かしい仲間たちと再会して共に中身の濃い時間を過ごせるのは本当に嬉しいことです。

今週受けた講義の中で「嫉妬」がいかに我々の心を蝕み、そのリーダーシップを妨げるものであるかを考える時間がありました。講義が始まった頃、私は先生の話を一般論として聞いていましたが、講義を聞いているうちに、自分の心の中にどれほど強くこの「嫉妬心」が根を張っているかに気づかされていきました。講義の最後に、ひとつの聖句を読みました。

神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください。

(旧約聖書 詩編139:23,24 新共同訳)

自分自身の本当に姿に気づくのは本当に難しいことです。しかも自分の姿に気づいたとしても、その醜い姿を自分ではどうすることも出来ません。しかし、この詩編の祈りの言葉は、私に希望を与えてくれました。私たちは神様に自分の心を明け渡し、導いていただくことが出来るのです。私の心にも、そしてあなたの心にも、神様の平安がありますように。

決められた道を走りとおし

私の休日の楽しみは、走ることです。以前は自転車で走っていましたが、最近はジョギングをしています。長い距離を走るとき、いつ頃からか自分に言い聞かせるようになったことがあります。それは、「目的地を目指す。しかし、先を見過ぎない。ときには後ろを振り返る」ということです。

長くきつい登り坂を走っているときに、坂の上の方を見ていると「まだこんなに登りが続くの?!」と絶望的な気持ちになってしまうことがあります。あまり先を見過ぎず、足元を見ながら一歩一歩進んで行くと、いつの間にかきつい坂が終わっています。ときには後ろを振り返ることで元気が湧いてくることもあります。「先は長いな…。」と思うとき、自分がこれまで走ってきた道のりを振り返ると「こんなに頑張って来たんだからゴールまで行ける!」と、前向きな気持ちにさせられます。

信仰生活や、人生のゴール・目的地を覚えるのは大切なことです。しかし、自分の足元をしっかり見据えて一歩一歩進むことも同じように大切です。自分が歩いてきた道を振り返るとき、達成感を覚え、そこに備えられていた神様の恵みを思い返して感謝の念が湧いてくることもあるでしょう。それらはいずれも目的地を目指す私たちを励ましてくれます。

 

私は使徒パウロが手紙の中で繰り返し使っている「走る」という言葉が好きです。私たちが自分の人生を終えようとするときに、パウロと共に胸を張ってこのように言いたいものです。


世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。

(新約聖書 Ⅱテモテへの手紙4:6,7 新共同訳)


セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は、ある休日ジョギングの目的地、高尾山です。

流れのほとりに植えられた木

梅雨の季節になりましたが、この季節にも楽しみはあります。私は自宅近くの公園に咲く菖蒲の花を毎年楽しみにしています。今年も見事な花が咲きました。山から湧き出た水が水車を動かし、その水が菖蒲田を潤しています。詩篇の言葉が思い出されます。


悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、

あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。

このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。

このような人は流れのほとりに植えられた木の

時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。

(旧約聖書 詩編1:1~3 口語訳)


この聖句は私たちにいくつかの大切なことを教えています。

  • 「流れのほとりに植えられた木」…わたしはどこに根を下ろしているか?

私たちは色々なものを頼りにして生きています。聖書は私たちに命の水の源である、神に根を下ろして生きよと勧めています。一時的なもの、本当の命をもたらさないものに頼り、根を下ろしてはいないでしょうか。

  • 「時が来ると」…私は神様の「時」を待っているか?

もしも私たちが神様に根を下ろしているならば、「時が来ると」必ず実を結ぶ、と聖書は約束しています。私たちは自分が願ったときと方法で実がみのる(結果が出る)ことを願います。しかし、神様は「時」(計画)を持っておられます。

私たちの人生には、真冬の凍えるような寒さの日や、照りつける太陽に苦しめられる日があります。しかし、もしも私が正しい場所に根を下ろしているならば、目の前の出来事に一喜一憂する必要はないのかもしれません。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は片倉城址公園の菖蒲です。

勝てないものを相手に生きる

ある本に次のように書かれていました。

「長い間人の死を看取っている方から『農業とか自然を相手にしてきた人の最期は、とても穏やかなお顔をしておられる』と言われたのを聞いて、なるほどと思った…。こうした人々は、自然といういつも自分の力を超えた大きな力、すなわち勝てないものを相手に生きてきたゆえに、一つの品性がその身に宿るのであろう。…私たちは“勝ってはならない”相手に勝ってしまっているのではないかと反省してみる必要がある。」

(藤木正三・工藤信夫『福音はとどいていますか』218ページ)

実に考えさせられる言葉でした。

私たちは弱さよりも強さを、支配されることよりは支配することを、そして負けるよりは勝つことを好みます。しかし、「勝てないものを相手にする」とき、私たちは己の限界を知り、そのことのゆえに謙虚さを学ぶことができるのかもしれません。

 


神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。

(旧約聖書 伝道の書3:11 口語訳)


先日、教会の前を通りかかった方からこんな言葉をいただきました。「私はクリスチャンではありませんが、夜、教会の前を通ると輝いている十字架に心が和ませられることがあります。」その言葉を聞いて私は嬉しい気持ちになりました。そして、十字架は私たち人間に、人間を超えた存在があることを指し示す力があるのだということを改めて教えられました。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

神を畏れる2人の助産婦

助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。

(旧約聖書 出エジプト記1:17 新共同訳)


エジプトの国に寄留していたヘブライ人は、当初70名ばかりでしたが、時が過ぎるにつれてその数が増えていきました。エジプト王はそんな彼らを警戒し、ヘブライ人の増加を食い止めようとしました。王は当初、厳しい強制労働によってヘブライ人たちを虐待しましたが、「虐待されればされるほど彼らは増え広がった」(同12節)と書かれています。王が次に打った手は、ヘブライ人助産婦たちに命じて、生まれてくるヘブライ人の男の子を皆殺しにするという恐ろしい計画でした。

当時のエジプトで、ヘブライ人助産婦たちが王のこの命令に従わないということは、彼女たち自身の命が危険にさらされることを意味しました。しかし彼女たちは王の命令には従わず、子どもたちの命を救いました。

彼女たちをして、王の命令に背かせたものは一体何だったのでしょうか?聖書記者はその理由を「助産婦は神を畏れていたので」と書いています(17~21節の間に同様の表現が2回繰り返されて

います)。

神を畏れて生き、働く女性が2人いたことで、多くの子どもたちの命が救われました。それだけではありません。もしも彼女たちがここで王の命令に従っていたなら、モーセは出エジプトのリーダーとしてその大切な役割につくこともなかったことでしょう。

私たち一人一人は社会の中で小さな存在です。しかし、心の底から神を信じ、神を畏れて生きる人がそこにいるならば、たとえそれが少人数であったとしても何かが変わるはずです。この2人の助産婦の記録を読むときに、「あなたは神を畏れて生きていますか?」と彼女たちに問いかけられているような気持ちになります。あなたは神を畏れて生きていますか?

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は東京衛生病院です。