月別アーカイブ: 2017年5月

イエスは主である

聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12:3 新共同訳)


5月20日、我が家の三男が北浦三育教会でバプテスマを受けました。息子が神様のお導きに応えて自分の気持ちを言い表し、イエス様を自分の救い主と信じる決心が出来たことが本当に嬉しかったです。

先週の聖書研究ガイドの中に次の文章がありました。

「ペトロは主に触発されて、イエスをメシアと宣言しましたが(マタイ16:16,17)、間違いなく、彼はそのことの意味を十分には分かっていませんでした。メシアとはだれなのか、メシアは何を成し遂げるのか、そしておそらく最も重要なことに、メシアはそれをどのように成し遂げるのか、ペトロは明確には理解していませんでした。」

(安息日学校聖書研究ガイド『わたしの羊を飼いなさい』ペトロの手紙Ⅰ・Ⅱ 57ページ)

 ペテロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白をしました。それに対してイエス様は「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、天の父なのだ」と言われました(マタイ16章)。私たちの「イエスは主である」との信仰告白は、自分の力によるのではなく、父なる神様と聖霊の働きによるのだと聖書は教えています。

ペテロがこの告白をした後にも、様々な失敗を繰り返したように、私たちも失敗をします。私たちのイエス様に対する信仰は、不十分で不完全なものです。しかしそのような信仰を見てイエス様は「あなたは幸いだ」と受け入れてくださる。私はそのイエス様の言葉に救われる思いがします。イエス様を主とする人生を選び、どんな失敗をしてしまったとしてもそこから決して離れずに歩み続けたい、我が子のバプテスマに際して改めてそう思いました。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

ペストのような存在で…。

この花をご存じでしょうか?私は最近までこの花の名前を知らなかったのですが、「ナガミヒナゲシ」という外来植物だそうです。確かにここ数年、この花を目にすることが増えて来ているように感じます。一つの実から1600粒もの種が生まれ、根と葉からは周囲の植物の生育を強く阻害する物質を生みだすことなどから在来植物への影響が心配されているそうです。

今までなかったものが俄かに存在感を増してくると、既存の勢力は危機感を覚えるものです。新約聖書の中で、使徒パウロは次のように言われています。


この男は、まるでペストのような存在で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり、ナザレ人という一派の首領でございます。

(新約聖書 使徒行伝24:5 新改訳)


イエス様と、イエス様に従った弟子たちには驚くような影響力がありました。使徒パウロはローマ帝国の権力者たちに「ペストのような存在」と恐れられました。イエス様は天国を一粒の種にたとえて人々に教えられました。イエス様が蒔かれた種は、地に落ちて、後に芽を出して何百倍・何千倍にも増えて拡がっていきました。私たちはいま、この聖書の言葉にそのような力があることを心から信じているでしょうか。私たちは弱い存在ですが、この言葉に力づけられて、神様の素晴らしさを周りの方にお伝えしていきたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

人の為

弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。

(新約聖書 ヨハネによる福音書12:4~6 新共同訳)


人はしばしば、自分の心の奥に本心を包み隠しながら言います。「私はあなたのためを思って言ってるんだ!」

「偽」という漢字を分解すると「人」「為」となります。私たちが何かにこだわって「あなた(人)の為(ため)」と声高に叫ぶとき、自分自身の心の中に「偽」という漢字が入り込んではいないだろうかと自問してみる必要があるのかもしれません。

イエス様に高価な香油をささげたマリヤにイスカリオテのユダが言いました。「なぜこの香油を売って貧しい人にほどこさなかったのか?」一見もっともらしい、「貧しい人たちの為に」という彼の言葉の裏側には、自分の不正をごまかそうとする計算高さと、金銭に対して貪欲さが隠されていました。

イエス様は私たちの心の奥に秘められた本心をご存じです。小さくても真心からの行いや言葉を神様のために、人のためにささげる者でありたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※陣馬山登山道からのお茶畑と富士山(撮影:2015年5月11日)。

すべて重荷を負うて苦労している者は

ゴールデンウィークをいかがお過ごしでしょうか?ニュースを見ると「渋滞予想本日夕方30キロ」などと報じられておりますが、せっかくの連休にリフレッシュするために出かけても、混雑や渋滞で疲れてしまうことにやりきれなさを感じます。イエス様の有名な言葉です。


 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

(新約聖書 マタイによる福音書11:28~30 口語訳)


私たちが生きていくということは、重荷を背負うことです。どんな人であっても重荷と無縁の人生を送ることは出来ません。重荷を降ろしたくて、あるいは忘れたくてどこかに出かけようとしても、そのことでさらに重荷が増えてしまうような人生を私たちは生きています。しかし、もしもそうだとするなら、そのような人生の中で「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」と呼びかけてくださる方を知っている人は幸いです。その方のもとに行くならば「休みが与えられる」(29節)からです。

毎朝聖書を読んで静かに祈る時間を持ち、毎週安息日には教会に集うことが、重荷を負って忙しい毎日を過ごす私たちをどれほど回復させてくれているでしょうか。他の場所にではなく、この方のもとに安らぎを求めて生きる者でありたいと思います。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋