月別アーカイブ: 2017年4月

「大声で言った」

今週月曜日から木曜日まで全国の牧師たちが集まり、研修を受けました。その中で「何を/どのように/なぜ伝えるのか?」という講義がありました。その内容から少しご紹介させていただきます。

わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て、大声で言った。「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」

(新約聖書 ヨハネの黙示録14:6,7 新共同訳)

これは私たちセブンスデー・アドベンチスト教会が特に大切にしている、三天使のメッセージの中の最初の天使のメッセージです。この天使は大切なメッセージを文字通り世界中に住むすべての人たちに広く伝えるために「大声で」叫びました。 

重要で緊急な知らせを、遠くにいる人たちにまで確実に伝えたいとき、私たちの声は自然に大きくなります。今から約150年前、私たちの教会の信仰の先輩たちは、「キリストの再臨が近い!」という重要なメッセージを当時の最先端のメディアだった印刷物を使って大々的に宣べ伝えました。

最近、私たちの教会のホームページを閲覧された方々からの問い合わせが少しずつ増えて来ています。この時代、私たちは神様から委ねられた大切なメッセージを広く宣べ伝えるのに、このインターネットという方法をもっと研究・活用する必要があると感じました。

あなたが「大声で」宣べ伝えたいことは何ですか?そして、それをどのような方法で発信することができるでしょうか?

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

信仰のリバイバルをめざして

今週、私たちの教会では春の祈祷週がもたれました。毎日色々な場所に集まって祈り、信仰のリバイバル(復活・再生)について学びました。人間には感情のアップダウンがあります。何かに熱心に取り組んでいたかと思えば、熱が冷めて投げ出してしまうことがあります。情熱的な付き合いをしていたカップルが、疎遠になってしまうこともあります。私たちと神様の関係も、信仰に入ったとき、内に熱く燃えるものがあったはずなのに、今ではすっかりマンネリ化してしまっている…。と失望させられることがしばしばあります。祈祷週の読み物に、次のような文章がありました。

「リバイバルとは、霊的生命の再生、理性と心の能力の向上、霊的死からの復活を意味する」(『Review and Herald』Feb 25, 1902)。リバイバルは、単にそれについて読むときに起こるのではなく、聖書の教えるリバイバルの要素を実践するときに起こります。新約聖書の教会は祈りと聖書研究、証を通して、イエスとの生きた経験を持ち続けました。

(『信仰のリバイバルをめざして』20ページ)

マンネリ化し、命を失ってしまったものが、もう一度息を吹き返すことが出来るのでしょうか?

預言者エゼキエルが枯れた骨で満ちた谷に立たされたとき、神様から問われました。「これらの骨は生き返ることができるか?」彼は「主よ、あなただけがご存じです」と答えました。それに対する神様の言葉は次のようなものでした。

「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」

(旧約聖書 エゼキエル37:1~5 新共同訳)

神の言葉によって、命の息が吹きこまれるとき、命を失っていたものが生き返る。それが神様の約束です。命の言葉である聖書から、日々神様の命を受け取り続けたいと願っています。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

主は驚かれた

主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。

(旧約聖書 イザヤ59:16 新改訳)


神様が「とりなす人がいない」ことに驚かれた、とここに書かれています。「とりなす」という言葉を辞書で調べると「ものごとの中に立って、仲直りをさせる。仲裁する。」と書かれています。人と人、そして神と人の間に立って「とりなす」人が必要とされています。世の終わりの徴について、マタイによる福音書24章には「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(12節・新共同訳)と書かれていますが、いま身の周りをそして世界中を見渡しても、その通りの状況が起きていることを強く感じさせられます。

私たちの教会では、4月15日(土)~22日(土)まで、春の祈祷週を持ちます。毎日集まって聖書の言葉を学び、心を合わせて祈りをささげる1週間です。私たちの周りには(そして私自身も)、「とりなし」を必要としている人がたくさんいます。重荷を抱えている方、病に苦しんでいる方、神様の救いを必要としている方々のために、心を砕いて祈り続ける者になりたいと願っています。

春の祈祷週読み物(『信仰のリバイバルを求めて』マーク・フィンレー)に書かれていた次の言葉をご紹介いたします。

「この世が考える以上に、多くのことが祈りによって成し遂げられる」アルフレッド・ロード・テニスン

「私たちが祈らないのは多忙のゆえである。したがって、力がないのも多忙のゆえである。活動は多いが、業績は少ない。奉仕は多いが、回心は少ない。組織は多いが、結果は少ない」R・A・トーレー

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

神様からの手紙

電子メールやスマートフォンのアプリなどが普及して、手紙を書いたり受け取ったりすることが少なくなってきました。確かに電子メールは遠くに離れた人と、瞬時に情報をやりとり出来て便利なのですが、そんな時代だからこそ手紙の価値や重みが一層増しているのではないかと思います。

これまでにどんな手紙を書き、受け取って来たでしょうか?

心励まされる手紙、ラブレター、胃がキリキリと痛くなるようなお叱りの手紙…。様々な種類の手紙があります。どんな手紙であれ、直筆で書かれた手紙には、書き手の思いがずっしりと込められています。聖書には次のように書かれています。


 わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。

(新約聖書 コリントの信徒への手紙2 3:2,3 新共同訳)


「神様からのすべての人たちへの手紙」=「あなたがた(クリスチャン)」だと聖書は言うのです。誰かが私を見ることで「神様ってこんなもんか」って見切られてしまったら?と思うと不安になります。しかし、神様が私を「手紙」として用いてくださるというのは身に余る光栄だとも感じます。神様が書かれた手紙であるならば、文責は神様にあります。

春になって植物が一斉に目を覚ましたかのように花を咲かせ始めました。花々が春のおとずれを知らせる神様からの手紙であるように、私たちも誰かに神様の愛とあたたかさを伝える手紙でありたいと願っています。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋