月別アーカイブ: 2017年3月

助けてください!

新年度がスタートしようとしています。「春は旅立ちの季節」と頭では理解していながら、先週までここにいた人が新しい場所に旅立ち、また他の人からも「引っ越しました」と連絡が来たりすると「いよいよ新しい年度が始まるんだな~」と実感させられます。

今期(4月~6月)、私たちの教会では安息日学校で「ペトロの手紙Ⅰ・Ⅱ」を学びます。今週は、これらの手紙を書いたペトロがどんな人物だったのかを振り返りました。ペトロが嵐の湖で、水の上を歩いてイエス様のもとへ行こうとしました。しかし、強い風に気づいた彼はイエス様を見失い、溺れそうになります。その場面について、このような説明がされていました。

しかしイエスは、ペトロが無力感の中で、「主よ、助けてください」(マタイ14:30)と叫ぶ以外に何もできない状態になることをお許しになりました。…私たちは主の力を信じ、強い信仰で物事を始めることができます。が、恐ろしい状況がやって来るとき、イエスがペトロに言われた言葉を思い出さねばなりません。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(マタイ14:31)。(安息日学校聖書研究ガイド『わたしの羊を飼いなさい』7ページより)

何かに向かって新しい気持ちで出発をするとき、逆風や荒波に襲われることがしばしばあります。人生に浮き沈みは付きものです。しかし私たちは人生の嵐の中でこそ、心の底から「主よ、助けてください!」と叫ぶことの大切さを学ぶことができるのかもしれません。新しい場所で新しい出発をする方、あるいはこれまでと同じ場所でこの4月を迎える方にも、イエス様の守りとお導きが豊かにありますように。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※開花間近の八王子市内片倉城址公園の桜です。

卒業

今週、街を歩いていると袴姿の女子大生を見かけました。「卒業式シーズンなんだなあ」と実感しました。


天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、

(旧約聖書 伝道の書3:1,2 口語訳)


「卒業」とは、「植えたものを抜く」ような出来事かもしれません。その場所に植えられて、定められた時間の中でそこにしっかりと根を下ろして成長して来た人が、そこでのすべての学びを終えて次のステップに進んで行く。それはもちろんおめでたいことではあるのですが、不安や寂しさなどの痛みが伴うものでもあります。 

いままで自分が慣れ親しんだ場所から巣立つ当人にとっては期待と不安の入り混じる瞬間であり、またその人を送り出し、見送る人たちにとっても、いままでそこにいた人を送り出す寂しさと戦わなければなりません。

厳しい冬の寒さが終わり、様々な生き物が活動を開始し始めるこの季節に私たちはこの節目の時間を迎えます。抜かれた植物は次の場所で根を張り、さらに成長して実を実らせるでしょう。そして抜かれた場所にまた新しい芽が顔を出します。出会いと別れが行き交うこの季節に、神様のこの言葉を約束として覚えたいと思います。


 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。

(同 伝道の書3:11)


※写真は東京三育小学校の卒業式と、相模原市緑区の小原宿付近の風景です。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

最も落胆しているときが…。

色々なことを思い煩っているうちに眠れなくなり、苦しんでいた夜、知らない人から一通のメールが届きました。外国からのメールだったので「迷惑メールかな?」と思ったのですが、件名は“Praying for you”とありました。読んでみてビックリしました。

 1月の全国牧師会のときに、世界総会のスタッフの方から「世界総会では日本の牧師たちのために毎日祈っています。より気持ちを込めて祈るために皆さんの写真を撮らせて下さい。そして祈りのリクエストのカードを出してください。」という呼びかけがあったのを思い出しました。このメールは世界総会で働く一人の牧師からのものでした。

自分が苦しんでいるちょうどそのときに「あなたのために毎日祈っているよ」というメールを受け取ったことで、私は「神様は私のことを覚えていてくださるのだ」と強く感じることが出来ました。そのメールにとても励まされたことを返信すると、翌日もう一度返信がありました。そこには次の文章が添えられており、さらに励まされました。


 神の導きのみ手を求めて手を差し伸べているすべての者にとって、最も落胆しているときが、神の助けが一番近い時である。彼らは自分たちの道の一番暗かったところを感謝をもってふりかえるであろう。「主は、信心深い者を試練の中から救い出」される(Ⅱペテロ2:9)。誘惑のたびに、試みのたびに、主はそこから彼らを、もっと固い信仰、もっと豊かな経験をもって導き出される。

(エレン・ホワイト『各時代の希望』58章より)


私は人が誰かのために祈ることの力と意義を信じます。一度も会ったことのない人であっても、その人のために心から神様に祈りをささげるときに、神様は私たちが思いもよらないような方法とタイミングでその祈りに応えてくださるのです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は高尾梅郷、木下沢梅林の梅の花です。

決して忘れず、覚えているからこそ

2011年の東日本大震災から、6年が過ぎようとしています。あの日起きた巨大な地震は、この国で生活していたすべての人の心の中に大きな爪痕を残しました。

しかし、人間は忘れる生き物です。大きな痛みと共に学んだことを時間の経過の中で忘れてしまわないために、日本中で「あの日を忘れない。」という呼びかけがなされています。

私は次の聖書の言葉を思い出しました。少し不思議な言葉にも思えます。


わたしの魂は平和を失い/幸福を忘れた。

わたしは言う/「わたしの生きる力は絶えた/ただ主を待ち望もう」と。

苦汁と欠乏の中で/貧しくさすらったときのことを

決して忘れず、覚えているからこそ/わたしの魂は沈み込んでいても

再び心を励まし、なお待ち望む。

主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。

(旧約聖書 哀歌3:17~22 新共同訳)


「苦しみを覚えているからこそ、私は神の慈しみを待ち望む」と、この言葉は言っています。私たちは苦しみを忘れようとします。しかし、苦しみを覚えているからこそ得られる希望や慈しみがあるのだと聖書は教えているのです。

過ぎ去ったと思っていた苦しみや痛みが、何かの拍子にぶり返してくるのは本当に辛いことです。「もう治ったと思っていたのに…。」とつぶやきたくなります。しかし、その痛みを覚えているからこそ、受け取ることのできる神様の憐れみがあるのだとするならば、その痛みにも大切な意味がある、と言えるのではないでしょうか。

あの災害が、いまだに過去のことになっていない方々がたくさんおられます。あの日のことを思い出すことで、心の傷が再び疼くという方もおられるでしょう。決して絶えることなく、尽きない神の慈しみが私たちの傷を優しく包んでくださる日が一日も早く来ますように。

※写真は、2011年4月に仙台を訪問した際の新幹線の車両です。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋