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なおりたいのか

さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。

(新約聖書 ヨハネによる福音書5:5~8 口語訳)


「病気の人に、しかも40年近くも苦しんできた人に『なおりたいのか』って、ちょっと無神経すぎる質問じゃないか?なおりたいに決まっているじゃないか。」

私はこの箇所を読むたびに、そう思っていました。

しかしあるときから、このイエス様の言葉が鋭く心に迫って来るように感じられるようになったのです。

うつ病になって仕事を休職し、なかなか職場復帰できずに過ごしていた時期のことです。なかなか復職できないことに焦りを覚え、「早く治りたい」という気持ちになる反面、「病気で休んでいる生活」に居心地の良さを覚え、色んな言い訳を探しながら(時に周囲に責任転嫁しながら)、「病」を自分の殻にしてそこに閉じこもろうとしている自分に気づかされたのは、そのころふと開いた聖書の中に、イエス様のこの言葉を見つけたときでした。 20161126%e3%81%aa%e3%81%8a%e3%82%8a%e3%81%9f%e3%81%84%e3%81%ae%e3%81%8b

「あなたは本当に立ち上がりたいと思っているのか?もしそうなら、自分の足で立ち上がりなさい。」イエス様から鋭く本心を見透かされ、しかしあたたかく問いかけられているような思いになりました。

この人はその後どうなったでしょうか?「すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った」(同5:9)。イエス様は私たちになすべきことを示すだけでなく、それをする力を与えてくださるお方です。あなたの立ち上がる一歩を、イエス様が支えてくださいますように。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は山梨県芦川町の林道の紅葉です(11月13日撮影)。

「慰め」と「励まし」

悲しみ、傷ついて力を失っている人を前にして、何もすることが出来ずに、自分の無力さに途方に暮れさせられることがしばしばあります。

作家の五木寛之さんが、その著書『大河の一滴』の中で次のように書いておられます。

孤立した悲しみや苦痛を激励で癒すことはできない。そういうときにどうするか。そばに行って無言でいるだけでもいいのではないか。その人の手に手を重ねて涙をこぼす。それだけでもいい。深いため息をつくこともそうだ。熱伝導の法則ではないけれど、手の温もりとともに閉ざされた悲哀や痛みが他人に伝わって拡散していくこともある。

(五木寛之『大河の一滴』258ページ)

本当は「慰め」を必要としている人を、何とかして「励まそう」と躍起になってしまい、かえって傷つけてしまうという失敗をどれほど繰り返しただろうかと思います。でも、そのような場面で本当に必要とされているのは「何かをすること」よりも「共にいること」なのかもしれません。

聖書には次のように書かれています。


 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

(新約聖書 ローマの信徒への手紙12:15 新共同訳)


福音書を読むと、イエス様が貧しい人・病気の人たち・社会から見放された人たちに寄り添い、彼らを深く憐れまれた様子が繰り返し記録されています。イエス様は一人ひとりを大切にされました。そして、彼らの苦しみや悲しみに目を留められて、深く憐れまれました。

日々、イエス様とつながることによって、イエス様に似た者へと作り変えていただきたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋20161119%e6%85%b0%e3%82%81%e3%81%a8%e5%8a%b1%e3%81%be%e3%81%97

※写真は、山梨県富士河口湖町新道峠からの富士山です(11月13日撮影)。

なぜですか…?

先々週の記事に車が故障したことを書きました。あの後、車の修理は完了し、何不自由なく走りまわることが出来るようになったはず…でしたが、水曜日の夕方、車のエンジンをかけようとすると、前回と同じような不具合が発生し、エンジンがかからなくなってしまいました。しばらく時間をおくとエンジンがかかったので、何とか自力で修理工場に持っていくことが出来ました。「何で2週間の間に2回も車が故障するんだ!?」とつぶやきながら…。

「神様、なぜですか?どうしてこんなことが起きるのですか?」

古今東西を問わず、苦しみの中から人間が神様に発し続けてきた問いです。

今期、私たちの教会では旧約聖書のヨブ記を学んでいます。今週のテキストにこのような文章がありました。

私たちは…ヨブのような「良い」人がなぜこの世で苦しむのかを探り続けています。しかし、ヨブ記とほかの本との決定的な違いは、ヨブ記が苦しみについて人間的な視点に立っていないという点です。むしろ、ヨブ記は聖書なので、私たちはこの問題に関する神の視点を見ます。

(『安息日学校聖書研究ガイド ヨブ記』46ページより)


あなたは神を究めることができるか。全能者の極みまでも見ることができるか。

(旧約聖書 ヨブ記11:7 新共同訳聖書)


これは友人ツォアルがヨブに語った言葉です。苦しみの渦中にある人に対してはいささか手厳しい言葉ではありますが、「人間はすべてを見通すことはできないのだ」ということを教えてくれる言葉であるようにも思います。

車の故障などとは比較にならないような苦難や悲しみの中で、それでもひたむきに今日という日を生きておられる方々に、神様からの希望が注がれますように。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋20161112%e3%81%aa%e3%81%9c%e3%81%a7%e3%81%99%e3%81%8b%ef%bc%9f

※今週出会った風景:山梨県北杜市大泉町付近からの八ヶ岳です。

国境を定められた神

この11月から2年間、北アジア太平洋支部が主催するCLAP(英語によるコミュニケーション能力とリーダーシップ向上のためのプログラム)に参加させて頂くことになりました。この期間、自分の任地の教会で働きながら課題を提出したり、年に2回の英語研修に参加しながら訓練を受けることになるようです。

思えば、中学生で英語の授業を受けるようになってから今まで、英語に対する苦手意識に苛まれてきました。しかし国際化が進み、私たちの身近なところにでも外国語を使う方々と接する機会が多くなってきました。もっと早く取り組めばよかったのですが、「今からでも遅くはない!」と自分に言い聞かせています。

神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。

(新約聖書 使徒言行録17:26,27 新共同訳)

英語の壁に打ちのめされるたびに「同じ人間なのに何で言語の違いがあるんだ!」と愚痴をこぼし、バベルの塔を造ろうとした人々を恨んできました(創世記11章参照)。しかし、先の聖句によれば、民族を作り、国境を定められたのは神であり、しかもそれは「人に神を求めさせるため」だと言うのです。

言葉が通じないというのは不便です。文化や習慣の違いから民族間の摩擦が起きることもあります。しかし、この「違い」のゆえに人が神を求め、神を見いだすことが出来るのだという、この聖書の約束は私たちにとても大切な視点を与えてくれるように思います。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋20161105%e5%9b%bd%e5%a2%83%e3%82%92%e5%ae%9a%e3%82%81%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%9f%e7%a5%9e

※写真は、広島三育学院大和キャンパスからの朝日です(10月31日撮影)。