月別アーカイブ: 2016年10月

備えをせよ

昨日、病院の駐車場に車を入れようとしたところ、急にエンジンがかからなくなってしまいました。後ろには同じように駐車場に入ろうとする車が列を作っています。とっさにギアをニュートラルにして車を降り、必死に車を押すと、幸い車はゆっくりと動き始めました。悪戦苦闘している私を見かけた通りすがりの人たちに助けられ、なんとか駐車スペースに車を停めることができました。

実はその3日ほど前、カー用品店でオイル交換をしてもらったとき、店員さんに「無料で点検をすることが出来ますがいかがでしょうか?」と声をかけられたのですが、「時間もないし、余計な出費になるようなメンテナンスを勧められるからいいや」と思い、「今日は大丈夫です」と断ったことが思い出されました。

先週は健康診断を受けましたが、自動車も自分の身体も、いつ何があるか分からないものだということ、そしてその時のための備えをすることが大切だと痛感させられました。

聖書にこのような言葉があります。

イスラエルよ/お前は自分の神と出会う備えをせよ。

(旧約聖書 アモス書4:12 新共同訳)

いつ起きるか分からない、しかしいつか必ず起きることのための備えをするように、聖書は私たちに呼びかけています。

10月29日の午後、八王子教会では、終活セミナー「私の葬儀の備え」を持ちます。時に私たちは「死」をタブー視してしまいます。しかし、神様は私たち人間の人生の終末というとても大切な出来事を通して、ご自身の栄光をあらわしてくださるのです。あなたは備えが出来ていますか?

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

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※3年前にも車が故障したことがありました。2013年4月撮影。

人の生くるはパンのみに由るにあらず

お腹がペコペコで帰宅した時に食卓に用意されている、熱々のご飯。

「近頃野菜不足だな~」と感じていた時に食べる、新鮮な野菜サラダ。

身も心も冷え切った時に食べる、具だくさんのみそ汁。

思わず「ぼくの身体が欲していたのはこれです!」と声をあげたくなる、嬉しい瞬間です。

聖書に「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ4:4)と書かれていますが、食べ物だけでなく、その時の自分に必要な言葉が聖書から与えられた時、思わず「ぼくの魂が欲していたのはこれです!」と声をあげたくなる、嬉しい瞬間です。 20161022%e4%ba%ba%e3%81%ae%e7%94%9f%e3%81%8f%e3%82%8b%e3%81%af%e3%83%91%e3%83%b3%e3%81%ae%e3%81%bf%e3%81%ab%e7%94%b1%e3%82%8b%e3%81%ab%e3%81%82%e3%82%89%e3%81%9a

不安でどうしようもない気持ちのときに与えられる、あたたかい励ましの言葉。

自分で自分の過ちに気付けていないようなときに与えられる、鋭い譴責の言葉。

ボロボロに落ち込んで立ち上がる力を失っている時には、心の燃料タンクに燃料が注がれるような力のある言葉が聖書から与えられるという経験を、これまで何度もしてきました。

「神様は私の心に必要なものを、私自身よりもご存じなんだなあ」と、嬉しくも厳粛な思いにさせられます。


神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。

(新約聖書 ヘブル4:12,13 口語訳)


「食欲の秋」そして「読書の秋」です。「命のパン」と言われる聖書の言葉に親しんでみませんか?

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は、信仰の大先輩から譲り受けた文語訳聖書です。

 

テストを受ける

20年以上前の学生時代以来でしょうか?今週、本当に久しぶりにテストを受けました。

英語の研修を受けるにあたって必要なテストだったのですが、ドキドキしながら試験会場に行き、背中からは身体に悪そうな冷や汗を流しながら何とか終えることが出来ました。

英語の「テスト」を受けたのは久しぶりのことでしたが、考えてみると私たちが生きているということは、日々何らかの選びを迫られており、私たちの日常に起きる様々な出来事が「人生のテスト」と言えるのではないでしょうか?旧約聖書の詩篇には、次のように書かれています。

主よ、わたしをためし、わたしを試み、わたしの心と思いとを練りきよめてください。

(旧約聖書 詩篇26:2 口語訳)

「テスト」がドキドキするのは、それを受けることによって自分がどの程度の実力なのかがはっきりする(自分の本当の姿が明らかにされる)からです。先の詩篇の言葉によれば、「神様に試される(テストされる)」ことにより、私たちは練り清められるのだということです。

もしもそうだとするならば、私のように何かのテストを受けるときだけ真剣になるのではなく、当たり前のように過ぎていく一日一日を、大切なテストに臨んでいるかのようにひたむきに生きることが必要なのではないかと考えさせられました。

愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。

(新約聖書 ペテロ第一の手紙4:12,13 口語訳)

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

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※写真は、2012年10月 韓国再臨祈祷院にて。

私はこれを思い返す

「季節の変わり目です。皆さん体調を崩さないようにお気をつけください。」などと言いながら、数日前から喉が痛み、頭が重くなり、見事に風邪をひいてしまいました。

ここしばらくの間、非常に体調が良かったのですが、久しぶりに風邪をひいてみて、「病気で伏していることはこんなに苦しいことだったんだ」と痛感しました。

自分の体調がすぐれているとき、病や痛みの中にある人への共感度や理解度は低下していたように思います。眠りたいのに、なかなか眠れないことの不安。身体を横にして同じ姿勢で休んでいることで、腰や身体の節々が痛むことの苦痛…等など、かつて知っていたはずの痛みを忘れている自分に気づかされました。

「何日か休んでいればじきに回復する」と分かっていても、風邪の症状が強く出ているときは不安な気持ちになるものです。ましてや長い期間、病に伏している方の苦しみと不安はどれほど大きく、深いものでしょうか。

私の悩みとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。

 私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。

 私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む。

 私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。

(旧約聖書 哀歌3:19~22 新改訳)

苦しみを思い返すことは辛いことです。しかし、苦しみを思い出すことで、神の恵みを心に刻み、神の救いを待ち望むことが出来るのだと聖書の言葉は教えています。OLYMPUS DIGITAL CAMERA

人間は忘れる生き物です。過去の苦しみのすべてを鮮明に覚えていたら辛すぎて生きていけなくなってしまうでしょう。しかし、苦しみを繰り返し思い出し、心に刻むことで隣人の痛みに敏感になり、また神の恵みの素晴らしさを深く理解できるのだということを覚えていたいと思うのです。

 

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋