月別アーカイブ: 2016年9月

登山道のベンチのように

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

(新約聖書 マタイによる福音書25:40 新共同訳)kimg0241

先日、久しぶりに山登りに行きました。

登山口から登山道を歩き、山頂で弁当を食べて、帰りは行きとは違うルートから下山しました。半分くらい下山すると、登山道の横に小さなスペースがあり、そこには「雨宿りシート」と書かれた手作りの木製のベンチがあります。しばらくそのベンチに座ってゆっくり身体を休めることが出来ました。

緑の木々の間から木漏れ日が射し、谷から渡って来る涼風に心身が癒されるのを感じました。

以前読んだ本に書かれていた、詩を思い出しました。

 

もしもわたしが一人の人の心を、傷心におちいらせないようにすることができるなら、

わたしの生涯は、むだではないであろう。

もしも一人の人の苦悩をやわらげてあげることができるなら、

あるいは、一人の人の苦痛をしずめてあげることができるなら、

あるいはまた、風に吹きおとされて弱りはてている一羽の駒鳥を助けて、

もとの巣の中へ、そっともどしてやることができるなら、

わたしの生涯はむだではないであろう。

(太田俊雄『矢と歌』19ページより)

一日にこのベンチを利用する人の数はそんなに多くはないでしょう。それでも人知れず、疲れた登山者にひとときの憩いを提供しているこのベンチのように、一人の人の苦痛や苦悩をそっと和らげる手助けが出来る人になりたいものだと思いました。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

どんな境遇にあっても

厳しい暑さの夏が去り、9月になると今度は秋雨前線や、台風の影響でぐずついた天候が続いています。人間というのはぜいたくなもので、暑い時には「涼しくなってほしい」と思い、こうして肌寒くなってくると「夏の暑さが恋しい」とつぶやいたりします。

昔、傘屋と草履屋へ2人の娘を嫁がせたおばあさんがいました。おばあさんはいい天気が続くと、「傘屋に嫁入りした娘が困っている」と泣き、雨が降ると「草履屋に嫁入りした娘が困っている」と泣いていました。

有名な昔話です。私たちは、「このおばあさんは愚かだな。悲観的過ぎる!もっと前向きに考えればいいのに。」と考えるのですが、しかし客観的に自分を見れば、自分自身もこのおばあさんのような状態になってしまっている、というようなことがいくらでもあるのではないかと思います。

わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。

(新約聖書 ピリピ人への手紙4:11~13 口語訳)

伝道者パウロはこの手紙を投獄された牢屋の中で書きました。

「どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」その人は、牢屋の中にあっても満ち足り、感謝していられる人でした。聖書を学ぶことで、聖書を通して神様とつながることで、このような確かな生き方が出来るようになればいいなあ、と思っています。

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セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※広島県三原市大和町の白竜湖の朝日です。(2004年10月撮影)。

主が共におられたので

旧約聖書・創世記に登場するヨセフは、山あり谷ありの生涯を送りました。父ヤコブの深い愛情を受けて育った少年時代から一転して、エジプトに奴隷として売られます。売られた先の家で主人に能力を認められ、家全体の管理を任せられますが、濡れ衣を着せられ、投獄されてしまいます。獄の中で夢の説き明かしをしたことで、後に王様の夢の説き明かしをすることになり、結果、エジプトの総理大臣になったヨセフは、大飢饉からエジプトの国全体を救いました。

創世記39章には、エジプトに連れて来られたヨセフが主人の家で働いた様子と、投獄された様子が描かれています。この章には、「主が共におられた」という言葉が4回出てきます。2回は、ヨセフが主人の家で働いた時のこと、そしてあとの2回はヨセフが投獄された場面です。

主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。

(旧約聖書 創世記39:2 新共同訳)

神様は、ヨセフが父の家で愛情を受けていたときだけでなく、奴隷として売られたエジプトでも、投獄された牢屋の中でも、彼と共におられたのです。

物事が順調に進む時、私たちは「神様が共にいてくださった」と感謝します。しかし、物事がうまく進んでいる20160917%e4%b8%bb%e3%81%8c%e5%85%b1%e3%81%ab%e3%81%8a%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%9f%e3%81%ae%e3%81%a7ように感じられる時だけでなく、苦しみの時、厳しい試練の時、濡れ衣を着せられて「なぜ私がこんな目に遭うのか」とつぶやきたくなる時にこそ、神様は私たちと共にいてくださるのだと、神様はヨセフの生涯を通して約束してくださっています。苦しみや悲しみの最中にあるときにも、「共にいてくださる神」が、あなたに必要な慰めと力を与えてくださいますように。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会

牧師 伊藤 滋

※キバナコスモスと秋晴れの空(2015年10月 陵南公園近くで)。

ありのままに知られている

大人になり、また様々な肩書きがつくにつれて、「仮面」をつけて、本当の自分を覆い隠そうとしてしまう弱さが私たちにはあります。もちろん、すべての人が「仮面」を外して言いたい放題・やりたい放題してしまったら、世の中は混乱してしまうでしょう。しかし、「仮面」を着けることが当たり前になってしまううちに、いつの間にか本当の自分の姿を見失ってしまうような気がします。

「とっさの時にその人の本性が表れる」と言われますが、何かの拍子に「仮面」が外れることがあります。

ある方のお見舞いに病室をお訪ねした時のことです。本当に苦しそうにしながらも、その方の口から出て来るのは、親しい人たちを案ずる言葉や「イエス様、感謝です」という感謝の言葉でした。

苦しみの最中にあるときに、人は「仮面」を着けることは出来ません。苦しみの中で語られるその方の言葉に、真実の重みを感じました。

聖書に次のように書かれています。 20160910%e3%81%82%e3%82%8a%e3%81%ae%e3%81%be%e3%81%be%e3%81%ab%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%a6%e3%81%84%e3%82%8b

わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。

(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 5:11 新共同訳)

「仮面」が外れたとき、私たちはどのような顔をしているでしょうか?私のすべてを「ありのままに」知りながらもなお、私を愛してくださる神様の愛は本当に素晴らしいですね。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※すくすくと育つ稲穂。後ろに見えるのは久慈川教会です(撮影:2016年8月 伊藤穣)。

止まれ

情熱を込めて取り組んでいたものがあったのに、いきなりうまくいかなくなってしまった。

突然降りかかって来る、自分自身や家族の怪我や病気。

怠けているわけではない。むしろ、一生懸命前に進もうとしているのに、不可抗力のトラブルによってこれ以上進むことが出来なくなってしまった…。20160903止まれ

わたしたちの人生には、突然、「止まれ」という標識を突きつけられるようなことが起こります。

詩篇46篇10節(新共同訳聖書では11節)の言葉を、3つの訳で見比べると、同じ言葉にも様々なニュアンスがあることが分かります。

  •  「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」(新改訳聖書)
  • 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(口語訳聖書)
  • 「力を捨てよ、知れ/わたしは神。」(新共同訳聖書)

神様はときに、「やめよ」と言われます。人生の歩みを止められるとき、私たちは自分の「力を捨てる」ことを求められます。それは不本意なことであり、不安なことであり、痛みの伴うことでもあります。しかし、「力を捨IMG_0349て」「静まる」ときに、はじめて神を知ることが出来るのだと聖書は言うのです。

道路を通行していて「止まれ」の標識に従わないことは非常に危険なことです。自分が傷つくかもしれませんし、誰かを傷つけてしまうかもしれません。一旦止まって左右を確認することが必要です。

同じように、私たちも人生の歩みの中で、突如あらわれた「止まれ」の標識にとまどうようなとき、力を捨て、心を静めて神様に心を向けてみたいと思うのです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋