月別アーカイブ: 2016年7月

そして、神に至る。

海の日の連休に実家に帰り、母方の親戚の集まりに参加しました。しばらくぶりに再会したおじさん・おばさ20160730そして神に至るん、いとこたちとその家族(初めて会った小さな子どもたち)と一緒に過ごしていると、時計の針が子どもの頃に戻ったような(そこから急に進んだような)不思議な感覚になりました。総勢34人が集まりました。

おじいちゃんおばあちゃんの血が、母やそのきょうだいたちに受け継がれ、またその子どもたちにも脈々と流れているんだなあ、と感じる場面がしばしばありました。

働き者だったおばあちゃんによく似て、真面目によく働くおばさんたち。

明るく面倒見がいいおばさんによく似た従姉妹たちは、おばさんの生まれ変わりのように、しっかり者のいいお母さんになっています。


 

神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。

(旧約聖書 創世記1:26 新共同訳)

それからさかのぼると、…そして神に至る。

(新約聖書 ルカによる福音書3:38 新共同訳)


 

子どもが両親に、そして親が祖父母に良く似ているように、私たち一人一人は神様に似せて造られました。さかのぼって行くと「神に至る」と書かれてある通りです。

罪の影響によって、私たちは神のかたちを失ってしまっていますが、それでも「神に似せて造られた者」です。実家に帰る時、自分のルーツを思い出すことが出来るように、神様の元に立ち返る時、自分が何者なのかを再確認し、本当の自分自身を取り戻す事が出来るのです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は解散前にみんなでスイカ割りをしたときの様子です。

子供たちをわたしのところに来させなさい。

先週末、兼任している八王子教会では毎年恒例のVBS(夏期聖書学校)でした。今年は教会に泊まってスーパー銭湯や花火、早朝から近くの公園でカブトムシ取りをしたり、熊本地震を支援する気持ちを込めてねんど工作(熊本県のマスコットキャラクター「くまモン」を作りました)をしたりと、盛りだくさんの1泊2日でした。

ふだん教会で顔を合わせている子どもたちの、ふだん以上に楽しそうな笑顔が印象的でした。


 

イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

(新約聖書 マルコによる福音書10:13~16 新共同訳)


 

20160723子供たちをわたしのところに来させなさいイエス様のところに子どもたちを連れてこようとしていた人たちを弟子たちが叱った、と書かれています。もしかしたら、イエス様の弟子であるはずの教会や牧師が、イエス様のもとに来ようとしている子どもたちの妨げになってはいないだろうか?と自問させられます。

あるスタッフの方が言われた「教会で遊ぶことはイエス様と遊ぶことと同じじゃないかなぁ」という言葉が心に響きました。VBSは終わりましたが、これからも子どもたちがイエス様のところに来るサポートをしていきたいものです。子どもたちを優しく抱っこされた、イエス様の笑顔を思いながら…。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

流れのほとりに植えられた木

先日、高尾山登山をした帰り道のことです。川の流れのそばに生えている紫陽花は元気に花を咲かせ20160716流れのほとりに植えられた木ていましたが、川から少し離れた場所の紫陽花は、しおれかけていました。

今年の関東地方は空梅雨でした。雨が少ないと紫陽花も元気を失います。しかし、そんな中でも、流れのほとりの紫陽花には力強い生命力が感じられました。

次の詩編の一節が思い出されました。


いかに幸いなことか…主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人。

その人は流れのほとりに植えられた木。

ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。

その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。 

(旧約聖書 詩編1:1~3節 新共同訳)


私たちは今、何に根をおろして生きているでしょうか。どこから命の糧を得ようとしているでしょうか。

聖書は、イエス・キリストこそが決して枯れることのない命の水の源であると教えています。この水から離れるとき、私たちは日照りにやられた紫陽花のように生気を失ってしまうのです。

魅力的に目に映る物が次々と現れては消えてゆくこんな時代にあっても、決して変わることのない、「イエス・キリスト」という水の源、川の流れのほとりに根をおろして生きる者でありたい、と願っています。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

心のタンク

ある本を読んでいたとき、思わず「心から納得!」とうなずかされたことがありました。それは「心のタンク」について書かれた以下の文章でした。

私たちは皆、心のタンクを持っています。タンクのてっぺんには入り口があり、底の方には出口があります。そして、ある種の活動はタンクの中身を減らし、またある種の活動はタンクの中身を満たします。私たちが行っている行動の中には、力を与えてくれるものと、力を奪っていくものがあるのです。…あなたを満たしてくれるものは何でしょう。あなたを疲れさせるものは何でしょう。

(ウェイン・コデイロ『あなたが燃え尽きてしまう前に』110ページ)


 20160709心のタンク私たちは慌ただしく過ぎる日常の中で、自分の心のタンクがいつの間にか目減りして、カラカラになっていることに気づかずに過ごしてしまうことがないでしょうか。それでも無理して走り続けるといつか燃え尽きてしまいます。著者はそのような状態を「オイル交換をせずに車を何年も乗り続けるようなもの」(前掲書112ページ)と言っています。

私は神様がつくられた自然の中で身体を動かしていると、汗と一緒に心の中から毒素が放出されていくような気分になります。山歩きをして麓に帰って来るころには、心地よい疲労感とともに心のタンクが満たされているのを実感します。人それぞれの心のタンクの満たし方があると思いますが、聖書は「神様こそが『生ける水の源』である」と教えています。いつも神様につながって心のタンクを満たしていただきたいものです。


 

まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。水をためることのできない/こわれた水溜めを。

(旧約聖書 イザヤ2:13 新共同訳)

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は梅雨の中休みの高尾山頂です。

起きなさい。恐れることはない。

先週の安息日の午後、兼任している八王子教会では「みことば配布プロジェクト」を実施しました。有志の方々でカードに思い思いの聖句を書き、道行く人たちに祈りを込めて配布しました。

教会を出発する前、不安そうな顔をしていた人も、すべてのカードを配り終えて帰って来るときには、見違えるように明るい表情になっていたのがとても印象的でした。

今週出会った聖書の言葉です。

弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」

(新約聖書 マタイによる福音書17:6,7 新共同訳)

20160702起きなさい。恐れることはない。「変貌の山」での出来事です。イエス様は恐れる弟子たちに、「起きなさい。恐れることはない」と言葉をかけられただけでなく、「彼らに手を触れ」られた、と書かれているのに目が留まりました。

イエス様は私たちの恐れを取り除いてくださいます。心が震え、恐怖で足がすくみ、地面に這いつくばってしまうようなとき、そんな私たちに優しく触れて立ち上がらせてくださるのです。

正直に言いますと、私は教会の外に出て行ってトラクトを配ったりするのがあまり得意ではありません。出て行くときにはドキドキしますし、勇気を出して配り始めても、受け取ってもらえなかったりすると「自分には無理だ」と思ってしまいます。でも、そんな恐れに取りつかれてしまう私を、イエス様は優しく励ましてくださるのです。

自分でも「牧師失格だなあ、、、。」と感じます。でもそんな私を、厳しく断罪するのではなく、優しく手を差し伸べてくださるイエス様から力をいただいて、また街に出て行きたいと思っています。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋