月別アーカイブ: 2016年1月

青春の日々にこそ

長男の卒業プログラムに出席するため、広島三育学院に行ってきました。広島三育学院の卒業プログラムは、金曜夜の卒業献身会・土曜日の卒業礼拝・日曜日の卒業式と3日続けて行われます。土曜日の礼拝の後にはバプテスマ式が行われました。当初2名の3年生がバプテスマを受けると発表されていましたが、当日朝に一人加わって、3名の3年生が、そしてさらに土曜日の夜に急遽1名の3年生がバプテスマを受けました。

20160130青春の日々にこそ卒業式の前日にバプテスマを受けた4人には、それぞれの迷いや悩み、心の中の戦いがあったことでしょう。急遽決まった夜のバプテスマ式も、本人は以前からバプテスマを希望していながら、ようやく保護者の了解が得られてこのタイミングでのバプテスマになったということでした。

「○○くんがバプテスマを受けることになりました!」という発表がされたときには、大きな喜びと感謝の拍手が全校生徒から湧き起こりました。雪が舞う中の式になりましたが、心の中が熱くなるひとときでした。


 

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。

(旧約聖書 コヘレトの言葉12:1,2 新共同訳)


 

悩みや葛藤、様々な試練を経験した高校生活の中で、創造主と出会い、一生従っていくことを決断した彼らが、天の御国に入る日まで、すべての誘惑や災いから守られて信仰を守り通すことができるように祈りたいと思います。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は、安息日礼拝後のバプテスマ式の様子です。

創造主のもとへ

昨年11月に購入したタブレットが、今週突然故障しました。落としたりぶつけたりしたわけでもなかったのですが、いきなり画面がはがれてしまったのです。購入したお店や携帯電話会社、製造メーカーの窓口などに問い合わせた結果、修理のために製造メーカーに引き取ってもらうことになりました。

私たちの身の回りには、様々な電気製品がありますが、それぞれの製品を一番よく知っているのは製造者です。製造者こそが、つくられたものを直し、もう一度蘇らすことができるのです。これは電気製品のみならず、私たち人間にもそのまま当てはまることです。

聖書は、私たち人間が神様によって造られた者であると教えています。神様が私を、目的と役割を持って創造されたのです。そのことを知らなくても生きていくことはできるかもしれません。しかし、電気製品が故障することがあるように、私たちの人生にも様々なトラブルが発生することがあります。そんなときこそが、私たちが創造者である神様に立ちかえるチャンスなのかもしれません。

だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。

(新約聖書 ペトロの手紙Ⅰ 4:19 新共同訳)

苦しみの中で、自分自身をすべてゆだねることのできる真実なお方がおられるのだということを覚えたいと思います。苦しみの中にある方が、その苦しみの中で真実な創造者である神様と出会うことができるように、心から祈ります。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

20160123創造主に自分の魂をゆだねなさい

  • 景信山頂からのぞむ都内の風景です。自然の中で、身も心もリフレッシュさせられます。

あきらめきれない思い

「人生あきらめが肝心」…これは真実でしょうか?

自分がこだわっていたものを手放し、「あきらめる」ことで見えてくる物や気づくことがあります。

逆に、あきらめずに努力を続けることでしか手に入れられないものがあるでしょう。

「人生あきらめが肝心」は、ケースバイケースなのかもしれません。

真実の愛を示し続けた神様に背き続けた人間の姿が、聖書には繰り返し記録されています。


 

ああ、エフライムよ

お前を見捨てることができようか。

イスラエルよ

お前を引き渡すことができようか。

アドマのようにお前を見捨て

ツェボイムのようにすることができようか。

わたしは激しく心を動かされ

憐れみに胸を焼かれる。

(旧約聖書 ホセア書11:8 新共同訳)


 

神様は、ご自分を裏切り、背を向け続けた者たちに対して「どうしてお前たちは死んでよいだろうか」(旧約聖書 エゼキエル33:11 新共同訳)と言われるのです。そこには「あきらめ」が入る余地はありません。神様は人間をあきらめられない。神様は私を、そしてあなたを決してあきらめることができないほどに愛しておられるのです。

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私はひどい自己嫌悪にさいなまれ、自分自身をあきらめたくなってしまったことがこれまでに何度もありました。でも、こんな私のことさえあきらめずに、愛と忍耐を持って導き、見守ってくださるお方がいるのだという聖書の約束にどれだけ励まされ、力づけられたことでしょう。「もう一度頑張ってみよう」と思える力が自分の内に枯渇してしまうようなとき、私を決してあきらめられない神様に心を向けたいと思います。

 

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は、夜明け前の甲府盆地と富士山です。

今年の目標

新しい年がスタートして1週間が過ぎました。正月休みも終わり、普段通りの生活が再開しました。慌ただしい日常に追われて新しい年の決心・目標を忘れてしまわないように、ここに記録しておきたいと思います。

私の2016年の目標は「心と身体のストレッチ」です。子どもの頃から身体が固く、学校の先生から「風呂上がりにストレッチする習慣を身につけなさい」と言われてきたのですが、この年になっても一向に改善されないばかりか、一層身体が固くなってきているのを危機感と共に痛感させられています。腰や肩など、身体の固さからきていると思われる慢性的な痛みも気になっているところです。

そして、身体だけではなく、頭の中も「固く」なってきてないだろうか?と最近自問させられることが増えてきました。数えてみると、牧師として働き始めてから20年が過ぎ、現在の教会(八王子・甲府)に赴任してからも3年が過ぎようとしています。「時間が過ぎる」ということは「経験を積む」という意味では財産ですが、既成概念にとらわれて「頭が固くなる」危険性もあります。

イエス様はご自分を信じた人々に次のように語られました。

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

(新約聖書 ヨハネによる福音書8:31,32 新共同訳)

20160109今年の目標私たちが信仰生活を重ねるごとに頭や心が固くなっていくのではなく、「真理によって自由にされる」とは、何と素晴らしいイエス様の約束でしょうか?

2016年を終えるとき、「心も身体も自由に(柔らかく)なったなあ~」と感じられるような一年を過ごしたいと願っています。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

 

※写真は八王子市内大和田橋からの初日の出です。

まず神の国と神の義とを求めなさい

新年明けましておめでとうございます。2016年がスタートしました。新しい年、どんな思いで、何を目指し、どんな夢を思い描いてスタートされたでしょうか?

イエス様は山上の説教の中で次のように言われました。

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(新約聖書 マタイによる福音書6:33 口語訳)。

「まず」とは、自分の心の中の優先順位を指す言葉です。「何を第一とするのか」が問われています。この「優先順位」について非常に考えさせられる文章がありましたので、ご紹介させていただきます。

「安息日は、アダムとエバにとって彼らが創造されてはじめて迎える最初の24時間であった。神が彼らにこの日を祝うように招かれたのは、彼らが1週間働いて、休みを必要としたからではなかった。神は、彼らにとっての最初の日に彼らにお会いになられたのである。このように、人間の、神と共に歩む歴史は、創造週の第一日ではなく第七日に始まったのである。…神は、われわれの経験や思想や計画や生活において、まず最初に迎えるべきお方である。何事をするにしてもそれを始める前に、また一週の働きを始める前に、神のもとにくるときに、われわれははじめて優先順位を正しい秩序に保つのである。」(サカエ・クボ『神との出会い』18ページ)

人類にとっての最初の24時間は、神様を礼拝するための日、安息日でした。神様が箱舟によってノアと彼の家族を洪水から守られた後、舟から出たノアが最初にしたことは、「祭壇を築いて…燔祭を祭壇の上にささげ」(創世記8:20)ること、すなわち神様を礼拝することでした。

新しい年を迎えた今、自分の中の優先順位の物差しを神様の前に正していただき、1年の歩みをスタートさせたいと思います。

20160102まず神の国と神の義とを求めなさい

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

 

※写真は、故郷の川に沈む夕日です(茨城県日立市久慈川河口で。撮影:伊藤穣)。