月別アーカイブ: 2015年1月

思いを込めて造られた

神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。

(旧約聖書 創世記1:31・新共同訳)


美術大学の卒業制作展を見学する機会がありました。日ごろなかなか触れる機会のない大学のキャンパスや作品を見学して有意義な時間を過ごすことが出来ました。

それぞれの作品には、制作者がどんな思いを込めて制作にあたったのか、解説の文章が添えられており、それを読みながら作品を見ることで、作品や制作者の思いを知ることが出来て非常に興味深く感じました。会場で頂いたパンフレットにこのような言葉が書かれていました。

「(この制作展は)単なる作品展示の場ではありません。同時にそこは、これまでの学修成果が最終的に評価される真剣勝負の場でもあります。そのような空気を感じながら、私たちの造形活動を是非ご覧ください。」

「ものをつくる」ということは、真剣勝負であり、「つくられたもの」には作者の熱い思いが込められています。「土の器」という讃美歌の中に、次のような言葉があります。


 私たちは土の器 あなたの思いを込めて造られた20150131思いを込めて造られた

私たちは土の器 あなたの光で輝く器

どうかわたしが 自分を嘆かぬように

あなたに造られた その意味を忘れぬように

(作詞・作曲:若林栄子『土の器』より)

 


私はこの「あなたの思いを込めて造られた」という歌詞に何度も慰められました。

自分で自分自身のことをどのように感じていようとも、「わたしは神様が思いを込めて創造された作品なのだ」ということを思い出させてくれるからです。

私たちの人生には、ひどい失敗に打ちのめされたり、全く自信を失ってしまうような日があります。しかし、神様がわたしを「思いを込めて造られた」ことを思い出すとき、心に希望が湧いてくるのです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

この唇の訴えに耳を傾けてくれ

聖書は私たちに「聞くことの大切さ」を教えています。

しかし、私たちは神様に対しても、人に対しても「聞く」ということが、あまり得意ではありません。

祈りのとき、自分の願いを神様に訴えることに忙しく、神様からの声に耳を傾けることを忘れてしまう。

人の話を聞くよりも、ついつい自分がしゃべってしまう。

相談に来てくれた人の力になりたくて、自分が思いつく限りのアドバイスを!と、しゃべりまくってしまい、失望した表情で去って行ってしまった…というような失敗を何度繰り返したことでしょうか。

 


 

20150124この唇の訴えに耳を傾けてくれ

 

「どうか黙ってくれ

黙ることがあなたたちの知恵を示す。

わたしの議論を聞き

この唇の訴えに耳を傾けてくれ。」

(ヨブ記13:5,6・新共同訳)

(写真は、自宅からの夜明けの空です。)

 


立て続けに起きた試練に身も心もズタズタになり、苦しんでいたヨブのもとに3人の友人がやってきます。彼らは苦しみの中にあるヨブに正論を振りかざします。彼らの言葉はいずれも正しいものでしたが、それは苦しみの中にあるヨブが必要としていたものではありませんでした。たまりかねてヨブが彼らに言ったのが先の言葉でした。

「この唇の訴えに耳を傾けてくれ」・・・ヨブと同じこの叫びが、今日私たちの周りでも声なき声となって響いているのではないでしょうか。

神様は私たちに「静まってわたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10・口語訳)と呼びかけています。心を静めて神様の言葉を聞く者に、そして人の言葉に心から耳を傾けられる者となりたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

夜明け前に

朝ふとんから出るのがつらい、寒さの厳しい季節になりました。

一般的に一日の気温が最も低い時間は、夜明け前です。街中が寝静まっているような真夜中ではなく、もうすぐ日が昇る、その直前の時間帯が一番寒いのです。そしてひとたび太陽が昇り始めると、少しずつではありますが気温は上昇し、凍りついていた植物も生気を取り戻します。

「夜明け前が一番寒い」・・・これは気温の変化だけでなく、私たちの人生にも当てはまるような気がします。

自分が置かれている状況がつらく、厳しく感じられるとき、行く先に希望のかけらも感じられないようなとき、実はそんなときこそが「夜明け前」=「希望が一番近づいているとき」なのかもしれません。

2014-12-13 07.16.14


 

「週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。」

(新約聖書・ルカによる福音書24:1 口語訳聖書)

※写真は、甲府教会からの日の出と富士山です。

 


イエス様を心から愛し、従っていた女性たちがいました。彼女たちは、イエス様が十字架上で亡くなられた後、出来る限り早い時間―――それが「週の初めの日の夜明け前」でした―――墓に行きました。彼女たちの人生にとって最も暗くつらい「夜明け前」だったことでしょう。しかし、彼女たちはこの直後、イエス様の復活という大きな喜びを体験することになるのでした。

聖書は私たちに「夜明け」を指し示しています。それは私たちが願っているような形やタイミングでは与えられないかもしれません。しかし、失意のどん底にありながら、それでも救い主の墓に向かった彼女たちが素晴らしい「夜明け」を迎えたように、夜明けが近いことを信じて前進する者でありたいと思うのです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

後で分かるようになる

クリスチャンにとって、「毎日聖書を読むこと」はとても大切なことです。毎日聖書を読むことで、その日の自分に必要な糧を受けることができます。しかし、聖書を読み続けていると、難しい箇所・あまり聞き慣れないカタカナの名前が延々と続く箇所など、読み進めるのに忍耐力を求められることもしばしばあります。

そのような「壁」に突き当たったとき、「意味が良く分からない」と投げ出してしまうのか、諦めずに読み続けるのかが、ひとつの分岐点になるような気がします。私自身、この分岐点でストップしてしまったことが何度もありました。

「理解できない」ということは不安です。「理解できないのに読み続ける」というのは無意味に思えます。しかし、本当に「理解できないこと」=「無意味」なのでしょうか?


20150110後で分かるようになる

 

 

「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」

(新約聖書・ヨハネによる福音書13:7 新共同訳)

 

 


 

これは、ペテロの足を洗おうとしてイエス様が言われた言葉です。そしてこの言葉は、時代を超えてすべての人に語りかけられるイエス様の約束でもあるように思います。

「いま、あなたはわたしがしたこと(十字架の死)の意味が分からないだろう。そのことについて書かれた聖書の言葉を理解できないかもしれない。でも、後で(あなたの人生の一番ふさわしいときに)分かるようになるだろう」

この言葉をイエス様からの約束と思えたとき、理解できない聖書の言葉に突き当たっても、それほど気にならなくなりました。聖書の言葉の意味も、わたしの人生に起きる様々な理解不能な出来事も、「そういうことだったのか!」と心から理解することが出来る日が来るのです。このイエス様の約束に励まされて、今日という日を生きていこうと思います。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

主を知ることを追い求めよう


 

我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。

主は曙の光のように必ず現れ20150103主を知ることを追い求めよう

降り注ぐ雨のように

大地を潤す春雨のように

我々を訪れてくださる。

<旧約聖書・ホセア書6:3 新共同訳>

 


明けましておめでとうございます。今年も皆さまの歩みの上に、神様のお導きと祝福が豊かに注がれますように、心よりお祈りさせていただきます。

元旦の朝、近所の河川敷に初日の出を見に行きました。東の空に雲がかかっていて、少し遅れましたが雲の間から太陽が昇るのを見ることが出来ました。

2015年、どんな目標・夢をお持ちでしょうか。

わたしはこの一年、「もっと神様を知る者になりたい」と思っています。

自分はイエス様のことを「知ってるつもり」でいたかもしれないけど、本当に知っている(体験している)のだろうか?と反省させられることがしばしばありました。

神様を知るために、もっと聖書を読む。読んで終わり、ではなく、聖書に書かれていることを体験することが出来るように、聖書の言葉に聴き従っていく。真剣に取り組もうとするほど、色々な壁や妨げが自分自身の中にあることを痛感させられることでしょう。しかし、使徒パウロが「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている」(ピリピ人への手紙3:8)と語ったほどに、「主を知ることの絶大な価値」を自分自身のものとして体験したいと思うのです。

イエス様からの光に照らされ、イエス様からの恵みの雨に潤される、そんな一年を過ごすことが出来ますように。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋