月別アーカイブ: 2014年12月

この病気は死で終わるものではない

今週、兼任している八王子教会ではクリスマスコンサート、そして教会員の方の告別式がありました。この機会に多くの方が教会に足を運んでくださいました。

「クリスマス」と「告別式」――全く違う種類の集会ですが、そこにはひとつの共通点があります。それは「死」ということです。

クリスマス…十字架の上で、私たちのために死ぬためにお生まれになったのがイエス様でした。東方からやってきた学者たちの献げものの一つは「没薬」(死者への贈り物)でした。

そして告別式は、故人を偲び、人間の命と死、そして天国への希望を聖書の言葉を通して再確認するために教会が行う大切な式です。

愛する人の死を受け入れるということは大きな悲しみを伴うことです。しかしわたしは今回の葬儀を通して、信仰を全うする生涯を送られた故人への尊敬の念、また式に出席された方々と故人とのあたたかい絆、そして聖書に約束されている天国への希望の素晴らしさを再確認させられました。

イエス様はラザロが死の床にあったとき、次のように言われました。


「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」(新約聖書・ヨハネによる福音書11:4)


 

聖書は病気や死を、「終わり」ではなく、「神の栄光を20141227この病気は死で終わるものではないあらわす機会」だと教えているのです。神様は確かに、故人の87年の生涯と、その死を通してご自身の栄光をあらわしてくださったと信じます。

2014年も残すところあとわずかとなりました。今もなお、悲しみや困難の中にある方々に神様の平安がありますようにと、心よりお祈りさせていただきます。

 

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会    牧師 伊藤 滋

クリスマスの喜び

いよいよクリスマス本番を迎えようとしています。プレゼントを贈り合ったり、ケーキを食べたり、パーティーをしたり…クリスマスならではの様々な楽しみがあります。あなたの「クリスマスの喜び」は何ですか?

20141220クリスマスの喜び


彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

マタイによる福音書2:9~11

※写真は、我が家のクリスマスツリーとアドベントカレンダーです。


東の国からやってきた博士たちが、イエス様がお生まれになった場所を指し示す星を見つけたとき、彼らは「喜びにあふれた」と書かれています。彼らの喜びは、目的地を見つけた喜びであっただけでなく、自分自身が大切にしてきた「宝の箱」を開けて、そのすべてを献げることのできる本物とついに出会った!という喜びでした。

ご自身の命を献げるためにこの地上に来てくださったイエス様のお誕生をお祝いする、クリスマス。

聖書がわたしたちに教える「クリスマスの喜び」は、「与える喜び」「献げる喜び」です。

今年のクリスマス、わたしたちの「クリスマスの喜び」を、「受け取る喜び」から、「与える・献げる喜び」としていきたいですね。寒さの厳しい季節ですが、イエス様のあたたかさが一人でも多くの人の心に届くクリスマスでありますように。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会     牧師 伊藤 滋

 

 

 

一年の計は…。

「勤勉な人はよく計画して利益を得/あわてて事を行う者は欠損をまねく。」(旧約聖書・箴言21:5)

早いもので2014年も残すところ2週間余りとなりました。2014年は皆さまにとってどのような一年だったでしょうか。そして来年はどのような一年にしたいと願っておられるでしょうか?

20141213一年の計は…。「一年の計は元旦にあり」と言われます。

これは、「計画は早めにしっかりと立てるべきである」との戒めの言葉ですが、元旦の日を、新しい一年の計画や目標を持って迎えるためには、前の年からその一年をきちんと振り返り、よかったこと・反省すべき点を踏まえて新しい年を迎える必要があるのではないでしょうか。

「ただでさえ忙しい12月、何とか今年一年を乗り切ることで精一杯!」という方もおられるかもしれません(わたしもそうです)。しかし、慌ただしい毎日の中、しばし心を落ち着けて今年一年を振り返ってみたいと思うのです。そうすることで新しい年を、また新しい気持ちで、それぞれの夢や目標に向かって一歩を踏み出すことが出来るのです。

私は2015年、聖書通読と個人的な祈りの時間を充実させることに再挑戦したいと思っています。

最近読んだ本の中で、ある牧師が次のように書いておられる言葉が心に留まりました。

わたしは早天祈祷会で旧約聖書を毎日一章ずつ講義することにしているが、旧約聖書は一枚ずつめくられていき、その厚さはだんだんと厚くなり、ついに全巻を終了し、現在二回目の詩篇にまできた。この厚さは祈りの厚さであり、旧約聖書におけるみことばを学んだ信仰の厚さでもある。わたしはときどきそれをながめてなんともいえない感激に心が満たされる。

(榎本保郎『教会づくり入門』106ページ)

来年の今頃、一年を振り返って「2015年は小さな一つ一つを積み重ねることが出来た大きな一年でした」と神様に感謝出来る、そんな年にしたいものですね。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

神によって置かれた場所

「自分を今、この場所に置かれたのは神様なのだ」という確信を持つ人の強さがあります。

先日、教会の皆さんと聖書を読んでいたとき、次の聖書の言葉が心に留まりました。

「人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。」

使徒言行録7:35

若い日に自分の仲間たちに拒否され、失意のうちにエジプトを去ったモーセでしたが、後に神様は彼を出エジプトのリーダーとして選び、モーセはこの特別な働きを成し遂げました。モーセの人生は困難の連続でしたが、「自分をこの働きに任命したのは人間ではなく、自分が信じている神ご自身なのだ」という確信は、彼を生涯支え続けました。

「生きてゆく」ということは、楽しいことばかりではありません。周囲に理解されず、一人ぼっちで涙を流すような日もあるでしょう。でも、そんなとき「自分を今、この場所に置かれたのは、神様なのだ」との確信を持つ人は、そこに踏みとどまることが出来ます。たとえ人に拒否されたとしても、神様が共にいてくださることを知っているからです。

「今、自分がここにいること」が苦しく感じるときにこそ、「わたしを今この場所に置かれたのは神様なのだ」という確信を取り戻したいと思うのです。わたし自身には目の前の困難を乗り越える力がなかったとしても、神様がわたしをここに導かれたのなら、乗り越える力も必ず神様が与えてくださるのですから。

20141206神によって置かれた場所

 

先日行われた結婚式の写真です。「神が合わせられたものを、人は離してはならない」(マルコ10:9)という聖書の言葉を共に心に刻みました。

 

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会

牧師 伊藤 滋