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「質問の答え」

 兄弟たちが家族を連れてエジプトへとやって来たことを報告するために、ヨセフさんはファラオのもとへ行きました。

 その際に、兄弟の中から数人選び、挨拶のために一緒にファラオのもとへ連れて行きました。すると、ヨセフさんが兄弟たちに伝えておいた通りの質問が待ち受けていました。

ファラオはヨセフの兄弟たちに言った。「お前たちの仕事は何か。」 兄弟たちが、「あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、羊飼いでございます」と答え、更に続けてファラオに言った。「わたしどもはこの国に寄留させていただきたいと思って、参りました。カナン地方は飢饉がひどく、僕たちの羊を飼うための牧草がありません。僕たちをゴシェンの地に住まわせてください。」  (聖書 創世記 47:34 新共同訳)

 ファラオからの質問は、「仕事は何か」というものでした。これに対しては、羊飼いと答えるようにと事前の打ち合わせで伝えてありましたので、その質問をされた兄弟たちはしっかりと予定通りの応答をしました。

 ここには大きな誘惑がありました。エジプトの国を任せているヨセフさんの兄弟たちですから、ファラオとしても兄弟たちに対してそれなりの地位を与えようと考えていたことと思います。

 また、そのような地位をもらえるとなれば、目がくらむことがあったかもしれません。もしそのような流れになってしまったとしたら、この家族はエジプトという異教の文化の中に取り込まれてしまうことになっていたかもしれません。結果、神様を礼拝する者としての忠実な歩みが困難になってしまう恐れがありました。

 しかし、神様はヨセフさんを通して兄弟たちに「羊飼い」と答えさせることで、その危険から守ってくださいました。

 更に、兄弟たちがファラオの質問に対する答えの際、自分たちは寄留者であり、永住するつもりでいるわけではないということをハッキリと伝えたことで、エジプトという国に完全に入り込むのではなく、あくまでも寄留者であり、再び旅立つこともあるということをファラオに示しました。

 私たちは、神様の御国を目指して歩んでいます。聖書は、この世は仮住まいであると言っています。私たちも、ヨセフさんの兄弟たちのように、この仮住まいにおいて地位や名誉を得ることではなく、神様に忠実であることが大切であると聖書は教えてくれます。

「羊を飼う理由」

ついに、長い間死んだと思っていた愛する息子と再会する時を迎えた父ヤコブさんは、あまりの嬉しさにこう言いました。

イスラエルはヨセフに言った。「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」(聖書 創世記 46:30 新共同訳)

 いつ自分の寿命が尽きたとしても、もう何も悔いはないというような心の表れだったと思います。

 それほどまでに、ヤコブさんにとっては大きな出来事でした。憎み合っていた兄弟が助け合い、恨みを抱くこともなく許しあっている。長年かかって、やっと家族らしい交わりを持つことができるようになった瞬間でした。

 そんな家族にヨセフさんはある指示を出しました。

ですから、ファラオがあなたたちをお召しになって、『仕事は何か』と言われたら、『あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、幼い時から今日まで家畜の群れを飼う者でございます』と答えてください。そうすれば、あなたたちはゴシェンの地域に住むことができるでしょう。」 羊飼いはすべて、エジプト人のいとうものであったのである。

(聖書 創世記 46:33-34 新共同訳)

 今からファラオと会うにあたり、職業を尋ねられたら羊飼いと返事をするようにという指示でした。

 実は、これが今後の彼らの人生や信仰生活を大きく左右するものとなっていきました。エジプトにはエジプトの文化があり、宗教があります。アブラハム、イサク、ヤコブの神を信じ礼拝するこの家族にとって、エジプトの地は大きな誘惑となる場所でもありました。このままエジプトで暮らすことは信仰生活に影響を及ぼすことになります。

 しかし、職業を羊飼いと答えることで、エジプト人とは一線引いた生活をすることが可能でした。理由は、羊飼いというのがエジプト人からは避けられていた職業だったからです。

 そのような仕事をする彼らが暮らす地域にわざわざ入り込んでくるエジプト人はいません。そのことを通して、イスラエル民族はのびのびと暮らすことができるのでした。

 結果的に、それが彼らの繁栄につながり、信仰を保っていくための大切な保護となっていたのでした。

 神様は、このエジプトの地で彼らを特別に保護することで、神様の民を守られ、その数を確実に増やしていかれたのでした。

「拘りを捨てる」

ヤコブはベエル・シェバを出発した。イスラエルの息子たちは、ファラオが遣わした馬車に父ヤコブと子供や妻たちを乗せた。 ヤコブとその子孫は皆、カナン地方で得た家畜や財産を携えてエジプトへ向かった。 こうしてヤコブは、息子や孫、娘や孫娘など、子孫を皆連れてエジプトへ行った。 (聖書 創世記 46:57新共同訳)

神様からエジプトへ下ることを恐れてはならないと言われたヤコブさんは、ファラオさんから送られた馬車に乗ってエジプトの地へと進みました。

ヤコブさんと息子たちだけではなく、その家族も含めて皆でエジプトの地を目指しました。

ここまで大所帯にも関わらず、兄弟誰も欠けることなく、また、仲間割れして離脱することなくエジプトへ向かうことができたのは、この家族が本当に神様によって成長させられたということの証だったのではないかと思います。

また、それを願って「途中で争わないでください」と言ったヨセフさんの言葉も兄弟たちの心に響いていたのかもしれません。

そして、聖書はエジプトの地へ向かった家族についてこのように記しています。

ヤコブの腰から出た者で、ヤコブと共にエジプトへ行った者は、ヤコブの息子の妻たちを除けば、総数六十六名である。エジプトで生まれたヨセフの息子は二人である。従って、エジプトへ行ったヤコブの家族は総数七十名であった。(聖書 創世記 46:2627 新共同訳)

さて、この大所帯がエジプトの地に入るにあたり、ある人物がヤコブさんからお遣いを頼まれました。

ヤコブは、ヨセフをゴシェンに連れて来るために、ユダを一足先にヨセフのところへ遣わした。そして一行はゴシェンの地に到着した。(聖書 創世記 46:28 新共同訳)

こお大所帯の族長ヤコブさんから、代表に任命されたのはユダさんでした。これは、ただ単にお遣いを頼みますというだけではなく、この一族の中で父から相続を受ける立場にある存在であるということを示すものでもありました。

ヤコブさんは、昔、他の兄たちをさしおいてヨセフさんを溺愛していた過去がありました。そして、そのヨセフさんを失った後、その偏愛はベニヤミンさんに向けられました。今までのヤコブさんであれば、相続はベニヤミンさんにと言って譲らなかったのではないかと思います。

 しかし、今、この家族の長は、偏愛する息子ではなく、年齢的にもふさわしく、経験やリーダーシップもあるユダさんを代表と認め、送り出したのでした。

 神様は、私たちの持つ偏った拘りを打ち砕き、成長させてくださる方です。

「その場所で」

エジプトから戻った息子たちから気が遠くなるような話を聞かされたヤコブさんでしたが、ヨセフさんに会えるという希望を受け入れて旅立ちました。

イスラエルは、一家を挙げて旅立った。そして、ベエル・シェバに着くと、父イサクの神にいけにえをささげた。その夜、幻の中で神がイスラエルに、「ヤコブ、ヤコブ」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、神は言われた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」(聖書 創世記 46:14 新共同訳)

エジプトに向かう道中、父イサクさんの所縁の場所で神様を礼拝しました。その時、ヤコブさんは神様から語りかけられました。

その内容は、エジプトへ下ることを恐れてはならないというものでした。ヤコブさんにとってエジプトという地は特別な場所でした。それは、祖父アブラハムがエジプトの地でファラオに対し妻を妹と偽る事件を起こし、父イサクに対しては神様からエジプトの地にいってはならないと示されたという経緯があったからでした。

代々エジプトの地とは距離を置くような家系であったため、自分がエジプトの地に行くことは神様の御心なのであろうかという恐れがあったことと思います。

しかし、神様はそんな恐れを抱くヤコブさんに対し、「わたしがあなたと共にエジプトへ行く」と力強い約束をしてくださいました。

しかし、神様の御計画は、イスラエルの民がエジプトをゴールにすることではありませんでした。神様は、彼らをカナンという約束の地に連れていくことを計画しておられました。

それに向けて、今ある神様の御計画は、彼らがエジプトの地に移り住み、その中でもファラオが特別に与えてくれる場所に住むことで、エジプトという国の文化や偶像礼拝の宗教的影響を受けずに生活をしていくということでした。

そして、「わたしはあなたをそこで大いなる国民にする」。つまり、この整った環境の中で彼らが繁栄していくことが神様の御計画でした。

神様の御計画は私たちの想像を超えるものです。どうして私がこの場所で?と問いたくなることもあります。しかし、その背後には神様の綿密な御計画があるんだということです。

「恐れてはならない。わたしが共に行く」という神様の言葉は、私たちにとっての大きな励ましです。

「疑いが晴れる」

 エジプトの地に父を連れてくるため、兄弟たちは沢山の食糧や贈り物を携えて出発しました。

 これで父の喜ぶ顔が見られると思った兄弟たちでしたが、一連の出来事に関する報告を聞いた父の反応は、喜びとは異なるものでした。

兄弟たちはエジプトからカナン地方へ上って行き、父ヤコブのもとへ帰ると、直ちに報告した。「ヨセフがまだ生きています。しかも、エジプト全国を治める者になっています。」父は気が遠くなった。彼らの言うことが信じられなかったのである。(創世記 45:2526 新共同訳)

 死んだと思っていた息子ヨセフが生きている。そして、エジプトの国を治める存在になっている。普通ならこの報告は嬉しいものですが、父の心には複雑なものがありました。

 ヨセフさんを失った日、また今回エジプトから一時帰郷した時、息子たちが自分の所に何か報告しに来るときには、いつも悪い事ばかりでした。

 そんな中で、今度はあのヨセフが生きているという報告を聞き、もううんざりだと思ってしまったのかもしれません。それに加えて、エジプトの地で偉い人になっているというわけのわからない話をしている。息子たちの言っていることを信じることができない状態になっていました。

 そこで、兄弟たちは、ヨセフさんから言われていた通り、エジプトで見たこと全てを話しました。そして、ヨセフさんから預かってきたものを見せ、ヨセフさんは本当に生きていて、エジプトで国を治めてる存在なんだということを示しました。

彼らはヨセフが話したとおりのことを、残らず父に語り、ヨセフが父を乗せるために遣わした馬車を見せた。父ヤコブは元気を取り戻した。イスラエルは言った。「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい。」(創世記 45:27-28 新共同訳)

 ヨセフさんを失い誰も慰めることができない状態になり、更には大事なベニヤミンさんをエジプトに送らなければならない状況になり生きた心地がしない日々を送っていたであろう父ヤコブさんでしたが、失った息子との再会の希望、そして、それを裏付ける証拠の品々を目の前にして、神様に祝福されたイスラエルとしてもう一度立ち上がりました。