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新たに力が与えられ

高尾山には、頂上を目指すにあたり幾つかのコースがあります。整備された道ではなく6号という自然の山道を登るコースで頂上を目指しました。

1時間かけて頂上にたどり着くと、沢山の人たちがお昼の休憩をしているとこ

ろでした。小学生の子どもたちが遠足か何かで来ていたようで、皆でお弁当を食べている姿も見られました。

お弁当を食べ終わった子たちが元気に走り回っている姿を見ながら、どこのコースを登って来たのだろうか。ケーブルカーで登って来たから元気なのかな。そんなことを考えながら山を降り始めました。

降り始めてすぐ、長い階段が待ち構えています。その階段をある程度降りたところで

、3人の御婦人がこんな会話をしていました。

「え、こんなに長い階段なの?」

「もうここで折り返しましょうか。。。」

「何言ってるのよ。せっかくここまで来たんだから。何のために頑張ったかわからなくなっちゃうじゃない。頑張りましょうよ」

協議の結果、御婦人たちは頑張って階段を登って行かれました。

「疲れた者に力を与え 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。

若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが

主に望みをおく人は新たに力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」

(イザヤ書40章29~31節)

 

私たちの歩む道において、疲れたり、もう先に進むのをあきらめたくなってしまうことに直面することがあります。

しかし、神様はそんな私たちに「新たに力を与え」てくださると言っておられます。「走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。それが、神様に望みをおく人の歩みです。

イエス様とお会いするその日まで、Uターンせずに歩み続けましょう。

 

 

心の目を覚ます

大学生時代、通学に中央線を使用していました。快速や青梅特快、休日運転など、知らないまま乗ってしまうと目的地を通り過ぎてしまうなんていうこともよくあります。4年も通えば何とか間違うことなく中央線を乗りこなすことができるようになっていきます。

先日、久しぶりに中央線に乗り、すいている車内でボーっと椅子に座って八王子を目指していました。「今、武蔵小金井だな」と確認をした後、更にボーっとしていると、電車のアナウンスで衝撃の事実を知りました。

アナウンス:「次は西荻窪」

私:「????」

数年間、電車に全く乗らない田舎暮らしをしていたこともあり、久々に中央線に乗って冷や汗をかきました。

何処行きの電車かも確認せず、ボーっと乗っていたため、八王子に着く前に折り返して東京へ進行方向を変えていたことに全く気がついていませんでした。

 

「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」(新約聖書 マタイによる福音書24:42 新共同訳)

 

私たちは、天に昇られたイエス様がもう一度戻って来られるのを待っています。聖書の中で、待っている人たちに対して1つのキーワードが投げかけられています。「目をさましていなさい」。いつ戻って来られるのかは誰にもわからない。そのイエス様を待つにあたり、しっかりと目を覚ましていなさい。聖書はそう私たちに言っています。ボーっと心の目を閉じたまま電車に乗って、終点から折り返してしまうような私にはとても大切な言葉だなと思いました。

目を覚まして、もう一度戻って来られるイエス様を心から待ち望みましょう。

わたしを究めておられる方

皆様、初めまして。伊藤滋牧師が北浦三育中学校へ赴任されるにあたり、皆様の御仲間に加えて頂くことになりました、堀圭佑(ほりけいすけ)と申します。

北浦三育教会で2年間御奉仕をさせて頂き、インターンを終え、この度牧師補として皆様のもとで御奉仕させて頂く機会が与えられました。

少しずつでも、自己紹介をさせて頂けたらと思っております。

生年月日:昭和63年4月17日(30歳)

昭和の終わり、そして平成の始まりに生を受けました。平成が続く限りは年齢を忘れても元号ですぐに確認できる!と思って過ごしてきましたが、それもあと数日だなと焦っている今日この頃です。

 

主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。

あなたは、わたしの内臓を造り 母の胎内にわたしを組み立ててくださった。

胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。

まだその一日も造られないうちから。

(旧約聖書 詩編139:1、13、16 新共同訳)

 

引越の荷物整理をしていると、普段開けないような段ボールの中にあるものに目を通し。断捨離を行うということが多々ありました。

その度に、「ああ、懐かしい」、「こんなものあったなあ」ということの連続です。

昔集めていた本やコレクション、学生時代に書いたレポート。その当時は必死に向き合っていたのだと思いますが、段ボールの中に眠り始めた途端に私の記憶から消え去っていたことに気がつきます。

神様は、私たちを造られました。私たちが誕生する前から私たち一人一人のことを「究め」、「知って」おられる方です。神様は、決して私たちを忘れ去ることはありません。

一人一人を愛し、大切に思い、そして今も支え導いてくださっています。

そんな神様と過ごせる創造の記念日に感謝ですね。

一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる /  ‘One person plants, but another person harvests the crop.’

毎年春の楽しみの一つは、プランターに植えられたビオラの花の間から、チューリップの花が咲くのを見ることです。今年もチューリップが芽を出し、すくすくと育っています。しかし「自分はこの花が咲くころにはもうここにはいないのか」と思うと複雑な気持ちになります。

自分が植えた花が咲くのを見られないのは残念なことです。しかしよく考えてみると、現在私たちの身の回りにある物の多くは、いちからすべて自分で作り上げたものではなく、誰かが用意してくれたものです。先日、牧師館の庭の夏ミカンの収穫をしました。この木もまた、私ではなく以前ここに住んでいたどなたかが植えてくれた木であり、私は労せずして毎年その実りに与って来たのでした。

そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

(新約聖書 ヨハネによる福音書4:37,38 新共同訳)

私は1984年3月にバプテスマを受けました。それは「自分が探し続けて勝ち取った信仰」ではなく、「誰かが蒔いてくれた種が自然に芽を出した結果」だったと思っています。この4月から、35年前にバプテスマを受けた北浦三育教会・中学校で働かせていただくことになりました。誰かが蒔いた種が自分の中にイエス様への信仰を実らせてくれたように、自分もいつか誰かの心の中にイエス様への信仰の実がみのることを信じて種を蒔き続ける者でありたいと願っています。

この地でのこれまでの皆様のあたたかなお支えに心から感謝しています。そして、毎週この記事をお読みいただきありがとうございました。皆様の上に、神様からの祝福が豊かに注がれますように、心よりお祈りさせていただきます。

One of my delight of spring season is to see flower of tulip. There are some planters in front of our church, tulips are growing among flowers of viola. I planted them last autumn. However, when I saw these flowers, I have mixed feelings. I will move to another church next week, so I will not see these tulip flowers. It’s pity that I can’t see the flower that I have planted.

After thinking about it, much of what we have is not something we have made myself. For example, I harvested orange which was planted in front of my house last week. It was not planted my own. Probably it was planted by a former pastor. Actually I didn’t plant it, but I was able to eat orange every year.

It is true when we say, ‘One person plants, but another person harvests the crop.’  I sent you to harvest a crop that you did not work for. Others did the work, and you get the profit from their work.”(John 4:37,38 ERV)

I was baptized 35 years ago. But I did not find God by myself. And I was not baptized by myself. Someone sowed the seed of Gospel for me, so as a result I was able to believe God.

I will work as a pastor at Kitaura Saniku Junior High School and Church from this April. That’s where I was baptized 35 years ago. I would like to sow the seed of Gospel like someone sowed for us 35 years ago.

And I want to say thank you very much to you. Because you have read these article every week and support for me during these 6 years. May God bless you!

向こう岸に渡ろう / Let us go over to the other side

先日、教会のバス旅行で江ノ島に行きました。気持ち良く晴れた青空の下で太平洋を眺めていると、心や身体が充電されていくのを感じました。神様が造られた自然は素晴らしいですね。

さて、陸地から海を眺めている分にはよいのですが、海の中に入って行くのは勇気がいります。聖書にも「海」や「湖」が出てきますが、それらの多くは「不安」や「困難」を象徴しています。

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。

(新約聖書 マルコによる福音書4:35 新共同訳)

イエス様が弟子たちに呼びかけられたように、私たちも不安の海を越えて「向こう岸」に向かうことを求められることがあります。私事になりますが、6年間過ごしたこの教会を離れ、間もなく次の任地に移ることになりました。先のことを考えるとふつふつと不安が湧いて来ます。しかし、そんな気持ちに心が支配されそうになるとき、この言葉を自分に言い聞かせることにしています。

「イエスは、ペテロが滅びるために、みもとにこいと命じられたのではなかった。イエスは、ご自分に従うようにわれわれを召しておいて、そのあとでわれわれを捨てるようなことをなさらない。」(エレン・ホワイト『各時代の希望』40章より)。

6年前の春、不安な気持ちでこの教会に赴任して来た私に、神様は沢山の素晴らしい経験を用意していてくださいました。それは6年前の自分には決して想像することの出来ないものでした。転勤や入学・卒業だけでなく、私たちの人生は日々、「向こう岸へ渡る」ことの連続です。誰も明日がどんな日になるか分からないからです。明日がどんな日が分からなかったとしても、「向こう岸に渡ろう」というイエス様の招きに日々応える者でありたい、そう願っています。

 

※江ノ島からの太平洋の眺め(3月12日撮影)

I went to the Enoshima-island this week. It was so sunny day and there is quite beautiful ocean. So when I saw the beautiful ocean, I felt my heart and body were charged. God’s creation is wonderful, isn’t it?

By the way, looking the ocean from land is comfortable, but go over to other side across the ocean is very difficult.

In the Bible, “sea” and “lake” often symbolize anxiety and difficulties.

That day when evening came, he said to his disciples, “Let us go over to the other side.” (Mark 4:35 NIV)

Jesus told to disciples,“Let us go over to the other side.” In the same way, He tell us “Come with me across the lake.”

I will move to another church 10 days later. When I think about next job, my heart are filled with anxiety.

But this quote reminds me how much Jesus cares for me.

Jesus did not bid Peter come to Him that he should perish; He does not call us to follow Him, and then forsake us.(The Desire of Ages 3821)

God gave me a lot of blessings during these six years. In the beginning, I couldn’t imagine these blessings. At that time, my heart were filled with anxiety.

Not only moving or graduation, but also at our everyone’s life, Jesus tell us  “Let us go over to the other side.” Because no one knows what will happen tomorrow. Even if I don’t know what will happen tomorrow, I wish respond to the invitation of Jesus day by day.