ショートメッセージ」カテゴリーアーカイブ

「剣を鋤に」

今年の夏過ぎから、顧問として大学のハンドベルに関わらせて頂いています。私はハンドベルをやったことがありませんので、演奏の面でのお手伝いではなく、練習にお邪魔して一緒に夕食を頂き、夕礼拝でお話をするということで関わっていました。

ハンドベルはやったことがありませんが、中学時代から友達がハンドベルで演奏する姿を間近で見てきましたので、どれだけ難しいことをしているのかということは何となく理解していました。

複数の人たちでドレミファソラシドの音階を分担して鳴らすため、ベルを鳴らすタイミングが一人でもズレてしまうと、旋律が崩れてしまいます。また、鳴らしそびれてしまうと、そこだけ音が抜けてしまうことになります。一人一人の責任がとても重い楽器だなと思いながら聴いていました。また、ピリピリした関係の人たちが演奏したら、きっとテンポを合わせるのも難しいのだろうなと思って見ていました。

しかし、皆が心を一つにし、息がピタッとあった時の演奏は、まるで一人の人が奏でているかのような素敵な音楽になります。(これらは、あくまでもハンドベルを演奏したことがない私の主観ですが。)

「主は多くの民の争いを裁き はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」(聖書 ミカ書4:3 新共同訳)

神様が、クリスマスに送って下さった独り子イエス様は、平和の君と呼ばれる方です。その方の与えてくださる平和は、争いのために持っていた武器を命の糧を得るための道具へと変えてしまうような平和です。

このクリスマスに、キリストの平和が皆様の上に豊かに注がれますようにお祈り申し上げます。

「暗闇の中で輝く光」

先日、町内の子ども会のクリスマス会に参加させて頂く機会が与えられました。プログラムの中で、教会に行って牧師さんのお話を聞くというものがあり、お手伝いをさせて頂きました。

会堂でのお話の後、皆でキャンドルサービスを行いました。牧師ということで、最初のロウソクに火を灯す役割を仰せつかりました。私の持つキャンドルから火を分けて順々に点灯していきました。

全員のロウソクに火を灯した後、子ども会のプレートの上にロウソクを並べていきました。最後に、電気を消して火の輝きをしばし眺めることができました。

暗闇でロウソクを眺めるのは久々のことでしたので、とてもキレイで新鮮な気持ちになりました。

「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(聖書 ヨハネによる福音書 1:5 新共同訳)

神様は、その独り子であるイエス様を私たちの生きるこの世界に送ってくださいました。その独り子イエス様は、神の王座を離れ、罪の暗闇に生きる私たちの人生を明るく照らすために、希望の光となるためにこの世に生まれてくださいました。

たとえ暗闇がその光を理解しなかったとしても、その暗闇のために全てをささげてくださいました。それが、クリスマスの出来事でした。

暗闇に輝くキャンドルの光を見た時、そんなイエス様の思いを改めて感じることができました。

「最初の預言」

12月に入り、クリスマスが近づいてまいりました。街中はクリスマスの装飾や音楽で盛り上がってきています。

スーパーの店員さんがサンタ帽をかぶっていたり、お店の音楽がクリスマスソングだったり。また、クリスマスケーキの宣伝も多く見られます。中には、お節の広告も。なんだか気が早いと思ってしまいますが、もうそのような時期なのですね。

クリスマスは、ケーキを食べたり、プレゼントを交換したりと、世の中では毎年色々な行事が行われています。

しかし、本当のクリスマスとは一体なんでしょうか。それは、聖書を開くと見えてきます。

聖書には、神様から「死んでしまうから、決して食べてはいけないよ」と言われた“あの木の実”を食べてしまった人間を何とかして救おうとしておられる神様の計画が書かれています。

クリスマスは、その救いの計画にとってとても大事な出来事でした。今回は、神様が一番初めに言われた救いの計画をご紹介いたします。

「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く。」(聖書 創世記3:15 新共同訳)

「お前」と「お前の子孫」とは誰のことなのか。「女」と「女の子孫」とは誰のことなのか。また、「頭」と「かかと」が砕かれるとは一体どういうことなのか。そして、これがクリスマスとどのように関係があるのか。

「クリスマスには教会へ」という言葉があるくらい、各地の教会では様々なプログラムが行われています。既に、参加なさるご予定をたてておられる方もおられると思います。是非、今年はそれに加えて聖書を開いて読んでみてはいかがでしょうか。

もちろん、聖書を読むお手伝いを致します。今日の聖句の意味は、是非その時にでも。

クリスマスではなくても、お待ちしています。

「キリストに結ばれた歩み」

クリスチャンという言葉は、イエス・キリストが十字架の死から復活し、天に上げられた後に誕生した呼称です。

イエス様のお弟子さんたちが、「十字架で死なれ、復活されたイエスこそキリスト、つまり救い主である」というメッセージを伝えてまわりました。

周囲の人たちから見ると、いつも「キリスト、キリスト」と言ってる不思議な集団だったと思います。

そんな「キリスト、キリスト」と言って、いつもキリストのことばかり語っていた人たちに対してつけられたのが「クリスチャン」というあだ名でした。

「このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。」(聖書 使徒行伝11:26 口語訳)

このあだ名は、キリストを信じる人たちにとっては光栄なものだったことと思います。このクリスチャンという呼び方は、自称したのではなく、周りからそのように呼ばれるようになったものでした。それは、ただ彼らが「キリスト」を語っていただけではなく、その生き方を通してキリストを語っていたからこそつけられたあだ名でした。

つまり、周囲の人々も認めるクリスチャンだったわけです。聖書は次のように言いまます。

「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。」(聖書 コロサイの信徒への手紙2:6 新共同訳)

キリストに結ばれた歩みは、私たちの思いをはるかに超えた歩みです。その生活は、「私」ではなく「キリスト」が中心となる歩みです。

 

「してはいけない理由」

神様が世界を造られた時、人間が食べるための実をもたらす木を沢山用意されました。そんな中、人間の住む園の真ん中に2本の特別な木を置かれました。

「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」(聖書 創世記2:9 新共同訳)

その特別な2本の木の正体は、「命の木」と「善悪の知識の木」という名前が付けられた木でした。何故、特別だったかというと、神様があるルールを設けられたからです。

「主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」」(聖書 創世記2:16∼17 新共同訳)

「善悪の知識の木」になる実は食べてはいけないというルールでした。「○○してはいけない」と言われると、なんだか気になります。「これを食べたら絶対太るよ」と言われ、わかっていても「今日くらいはいいだろう」とついつい食べてしまうことがよくあります。

しかし、このルールはとても大切なものでした。何故かというと、食べたら太る痩せるの話ではなく、人間の「命」にかかわることだったからです。そこには、神様の「死なないでほしい」という強い思いが込められていました。

さて、この「決して食べてはならない」というルール。人間は守ることができたのでしょうか。そして、皆さんは守ることができるでしょうか?

「してはいけない」に目を向けるのではなく、神様の「愛」に目を向けてみましょう。