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「どんな場所でも」

教会の玄関には短い階段があります。ふと気が付くと、その階段の一番下の段と地面の隙間に凄い存在感を放っているものがあるのに目が留まりました。

暖かくなってくると、色々なところに雑草が生えてきます。アスファルトの道であっても、少しの隙間にある土から元気よく草が生えてくるのを目にすることもあると思います。

今回目に留まった教会の玄関先の階段と地面の間から顔を出していたのは、雑草ではなく、綺麗なお花でした。

あまりにも立派に咲いていたので、感動するほどでした。イエス様はこのように言われました。

「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」

(聖書 マタイによる福音書6:27∼31 新共同訳)

種を蒔いたわけでも、水や肥料をやったわけでもないのに、本当に少しの隙間に根を張り、立派に育っているお花の姿は凄い存在感でした。

そして、それを見る時に、その生命力にあふれる綺麗なお花を造られた神様の大きな御業を感じることができます。

神様は、どんな条件下にあってもこの綺麗なお花をさかせることができるお方です。それと同じように、私たちがどんなに罪の深さに苦しんでいたとしても、そこから救いだし、新しく造り変えてくださる偉大なお方です。

それが、私たちを造られた神様です。

「アブラハムの信仰」

聖書には、信仰とはどのようなものかが記されています。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(聖書 ヘブライ人への手紙11:1 新共同訳)

私たちの目に見える、想像することができる範囲のことではなく、私たちの目には見えないこと。つまり、神様の「約束」を信じて歩むことだと書かれています。

そのような歩みをした人物として、新約聖書ではアブラハムさんの名前が挙げられています。

「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束なさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。」(聖書 ヘブライ人への手紙11:8∼12 新共同訳)

アブラハムさんが、長らく住んだ土地を後にして、旅を始めるようにと言われた出来事から始まり、子どもを授かることを諦める年齢に達していたにも関わらず、イサクという息子が与えられるという出来事。

このような、先が見えない中で「約束」を信じることによって、アブラハ

ムさんは信仰を持って歩んで行きました。

その先に待っているのは、神様の約束に与ることができるという大きな祝福

です。

「約束の時期」

アブラハムさんとサラさんに、本当に長い長い期間待ちわびていた待望の赤ちゃんが与えられました。

「主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。」(聖書 創世記21:1∼2 新共同訳)

神様の約束を何度も疑ったり、笑ってしまったりと、紆余曲折の旅路でしたが、神様は約束された通りに2人の老夫婦に子どもを授けてくださいました。

そして、その生まれた時期は、神様が事前に告げておられた時期でした。その約束の言葉はこうでした。

「わたしの契約は、来年の今ごろ、サラがあなたとの間に産むイサクと立てる。」(聖書 創世記17:21 新共同訳)

神様の約束は、息子が産まれるというものから始まり、奥さんのサラさんから産まれるという具体的なものになり、そして、最後はその時期まで約束をされたのでした。

私たちの救い主であるイエス・キリストも、聖書を通してその誕生が事前に告げられていました。更に、驚くべきことに、この救い主イエス・キリストに関しては、どこで誕生し、どの時代に、どのような人生を送るのかということまでが事前に告げられていたのでした。

聖書はその神の独り子である救い主イエス・キリストについて何度も何度も繰り返し語っている書物です。

そして、その約束は私たち一人一人に対して与えられているものです。

「それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」(聖書 イザヤ書7:14 新共同訳)

 

「前か後ろ」

アブラハムさんの甥のロトさんが住むソドムとゴモラの町は、神様の思いから大きくかけ離れてしまった不法がはびこる町でした。アブラハムさんの執り成しはあったものの、この町は滅んでしまうという宣告を受けました。ロトさんは、家族を連れてこの町から逃げるようにと神様から言われます。

この町では、多くの財産を築き、不自由のない生活でした。しかし、今、それを全て置いて町から逃げるようにと言われたわけです。ロトさんは渋りました。そんなロトさんに神様はこう言われました。

「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。」(聖書 創世記19:17 新共同訳)

生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされたロトさんに対し、神様は、その町で築き上げてきたものを守のではなく、あなたの命を守るようにと言われたのでした。

この後もロトさんは弱音を吐きながらなんとか走り出しました。神様から言われたように、後ろを振り向かずに。

しかし、ロトさんと一緒に逃げていたはずの奥さんは、後ろを振り返ってしまいました。神様が「後ろを振り返るな」と言われたのは、町がどうなったどうかと見るなということよりも、未練を捨てなさいという意味がありました。

ロトさんの奥さんは、今まで自分が住んでいた町、家、友人、財産。色々なものに後ろ髪を引かれ、町から出て逃げてはいましたが、心はまだソドムの町の中にありました。

彼女はこう思っていたかもしれません。「神様はなんてひどいことを。」

神様は命を助けたかったがために、後ろを振り返ってはいけないと言われました。しかし、その神様の思いがわからず、未練を残してきたロトの奥さんにとっては、感謝の言葉すらでてこない状況でした。

神様は、私たちに対して、命を守るために、その滅びてしまう罪という中から「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない」と言われます。

その神様の必死の思いを知ることができたとき、私たちは本当の意味で感謝をすることができるようになります。

 

「アブラハムの執り成し」

アブラハムのもとに三人の来客が訪れました。彼らはアブラハムに対して、良い知らせと悪い知らせを持ってやってきました。良い知らせは、この老夫婦に子どもが生まれるという祝福の言葉でした。しかし、悪い知らせは、甥のロトさんが暮らすソドムの町があまりにも罪深い状態であるため、滅ぼされるという知らせでした。

このソドムに対する宣告を聞いたアブラハムさんは神様に対してこのように言いました。

「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が

五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」(聖書 創世記18:23∼25 新共同訳)

もし、あの荒れ果てた町に少しでも正しい人がいるなら、滅ぼさないでください。そのような願いでした。

滅ぼさないということは、その少しの正しい人たち以外の悪いことをしていた人たちも同じように助かるということです。悪いことをしているのだから、その人たちは滅んでしまってもいいのではないかと思う人もいるかもしれません。

何故アブラハムさんは、「正しい人たちだけ助けてください」ではなく、「正しい人がいるなら町を滅ぼさないでくさい」と願ったのでしょうか。

それは、アブラハムさんが、「罪人」を愛する気持ちがあったからです。アブラハムさんは、「罪」という行為を許容することも肯定することもしませんでした。しかし、そこに陥ってしまっている「罪人」のことを覚え、その人たちが救われることを心から祈ったのでした。

これは、神様がもっておられる考えそのものでした。神様は、「罪」は憎まれます。しかし、「罪人」である私たちのことは心から愛してくださっています。そのために、独り子であるイエス・キリストを十字架につけてくださいました。

私たちもそのように神様から愛されている存在です。