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「誘惑者」

エジプトの地で、神様と自分の主人に対して誠実に仕えて働いていたヨセフさんは、主人からの強い信頼のもと沢山のものを任されるまでになりました。

しかし、そんなヨセフさんを再びどん底に突き落とすような出来事が起こってしまいました。

ヨセフさんは仕事ができるだけでなく、「顔も美しく、体つきも優れていた」(聖書 創世記39:6 新共同訳)そうです。

このハンサムなヨセフさんに対して誘惑の言葉をかける存在がありました。それが、主人であるポティファルさんの奥さんでした。

その誘惑に対して、ヨセフさんはこのように返しました。

「ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものはありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」(聖書 創世記39:8∼9 新共同訳)

ヨセフさんは、自分を全的に信頼してくれている主人に対して、忠誠をつくしました。そして、何よりも、そのような誘惑を退けることによって、神様に対しても忠実であり続けたのでした。

この後、毎日しつこく声をかけてくるポティファルの奥さんでしたが、ヨセフさんは全く耳をかすことなく自分の仕事を忠実に果たしていきました。しかし、それにしびれを切らした誘惑者は強硬手段に出ました。

「彼女はヨセフの着物をつかんで言った。「わたしの床に入りなさい。」ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。」(聖書 創世記39:12 新共同訳)

この、誘惑者の手に握られた着物によって、ヨセフさんはあらぬ罪を着せられて、今まで築いてきたものを全て失うこととなってしまうのでした。

 

 

「灯」

あけましておめでとうございます。昨年は世界中が目まぐるしく変化する1年でありました。命の危険と隣り合わせという状況で過ごされた方も多くおられたと思います。そのような中でも、2021年を迎えることができましたことを神様に感謝いたしましょう。

また、現在も感染症の対応のために休む間もなく働いておられる方々の上に神様からの平安が与えられますようにお祈りいたします。

聖書のみ言葉です。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。」(聖書 詩篇119:105 新共同訳)

詩篇記者は、神様の御言葉は進む道の光であり、その道を歩む歩みを照らす灯であると言います。

進む道が明るければ光も灯も必要ないかもしれません。しかし、人生という道を歩む時、私たちには光が必要であり、歩みを照らしてくれる灯の必要を感じざるを得ません。

神様の御言葉である聖書の言葉は、私たちが人生を歩んで行くためにとても大切な光であり、灯です。

この灯は、「今日は必要だけど明日はいらない」、「朝はいらないけど夜は必要」というものではありません。私たちが人生を歩む上で、片時も手放すことができない大切なものです。

恐らく、暗闇で光る灯は、目的地までを一気に照らすことはありません。私たちがその一歩を踏み出すための足元を照らしてくれるものです。

神様の御言葉も、私たちが今日その一歩を踏み出すために必要な光を与えてくれます。しかし、それと同時に、将来への希望を含むものでもあります。

「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」(聖書 ペトロの手紙二1:19 新共同訳)

私たちに与えられている聖書の預言は、イエス様がもう一度戻って来られるにあたって起こる時のしるし、そして、イエス様が必ずまた戻って来られるという約束です。

私たちの歩みがどのような状況にあっても、聖書を通してその力強い約束が与えられています。今年も神様の御言葉に照らされ、一歩一歩しっかりと歩いていく、そんな歩みをしてまいりましょう。

「誠実さ」

「ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。」(聖書 創世記39:1 新共同訳)

愛する父から遠く離れた地へと売り飛ばされたヨセフさんがたどり着いた場所は、エジプトという異国の地でした。そこでヨセフさんは、エジプトの王様に仕えるとても地位のある役人の家の奴隷へと買い取られたのでした。

自分に対してこんな酷い仕打ちをした兄たちのこと、もう二度と会えないであろう父親のこと、そして、自分が何故こんなことにならなければいけないのだろうか。ヨセフさんは、そんなことを考えていたことと思います。

しかし、エジプトの地に着くと、そんな感傷に浸る暇もないくらいに忙しい日々が待ち受けていました。

新しい言葉を覚え、新しい文化を学び、家のしきたりに慣れ、仕事をこなす。そんな日々が始まりました。

普通なら、「なんでこんなことにならなければいけないんだ」と嘆きながら、ふて腐れて抵抗してもおかしくないような状況でした。もしかすると、他の奴隷たちの中にはそのような態度の人がいたかもしれません。

しかし、そんな中にあってもヨセフさんはひと際目立つ存在として一目置かれるようになりました。

「主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。」(聖書 創世記39:3~4 新共同訳)

ヨセフさんは、ふて腐れたり、抵抗したりすることなく、神様に従う者として、誠実に主人に仕えました。

その姿を見たポティファルは、「こいつは何かが違う」と感じたのだと思います。そして、ヨセフさんに全てを任せることによって、この家は大きく祝福されていきました。

どのような境遇にあっても、神様が共におられることを忘れずに、置かれた境遇にあって、任されたことに誠実に生きていくことはとても大切なことであると学ぶことができますね。

そして、これも全て神様のご計画のうちにあったことでした。

「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。」(聖書 創世記39:2 新共同訳)

「着物についた血」

兄たちの憎しみの結果、命を狙われることになってしまったヨセフさんでしたが、長男ルベンの憐みの心によって何とか命拾いすることができました。

しかし、穴に投げ入れられた後、通りかかった奴隷商人へと売られることになってしまいました。

「ところが、その間にミディアン人の商人たちが通りかかって、ヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚でイシュマエル人に売ったので、彼らはヨセフをエジプトに連れて行ってしまった。」(聖書 創世記37:28 新共同訳)

この出来事は、後でこっそり穴から助け出そうとしていたルベンさんにとっては大きな誤算でした。

ヨセフの事を愛していた父親に対してどう説明したらよいのか。そんな思いでいっぱいだったことと思います。それは他の兄弟たちも同じことでした。まさかヨセフを奴隷商人に売り飛ばしたなんて口が裂けても言うことはできません。

しかし、兄弟たちには計画がありました。それは、ヨセフがあたかも不慮の事故にあったかのように見せかける偽装工作をするということでした。さっそく作戦を実行に移しました。

「兄弟たちはヨセフの着物を拾い上げ、雄山羊を殺してその血に着物を浸した。」(聖書 創世記37:31 新共同訳)

そして、この着物を使いの者に託し父の所へと送り届けさせることで、自分たちは問題に関わらずに事を済ませることにしたのでした。

本当ならば、兄たちの憎しみのためにヨセフさんは血を流して命を落としていたかもしれませんでした。しかし、この時、ヨセフさんの代わりに動物が血を流して命を落とすこととなりました。

イエス様も私たちを生かすために十字架で血を流し、命を捨ててくださいました。私たちはその犠牲によって新しい命を頂くことができました。

「穴からの救出」

 

父のおつかいで、兄たちの安否を確かめるために長旅を続けてきたヨセフさんは、ついに遠くの方に兄たちの姿を見つけることができました。

普通の兄弟であれば、長旅に対する労いの時を過ごすことと思いますが、この家族においてはそうはいきませんでした。

父親の偏った愛を受けている憎き弟の姿を見つけた兄たちは、恐ろしくも悲しい考えを抱くことになりました。

「兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めると、まだ近づいて来ないうちに、ヨセフを殺してしまおうとたくらみ、相談した。『おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう。』」(聖書 創世記37:18∼20 新共同訳)

父のもとから遠く離れた地において、弟の命を奪ってしまおう。しかも、長旅の中で獣に襲われたと言えば父親も不思議に思うことはない。兄たちは弟を憎むあまりそんな恐ろしい計画を相談し合ったのでした。

そんな中で、唯一長男のルベンさんだけは反対の意を示しました。そこでヨセフさんは、まず水が空になっていた貯水穴に投げ入れられました。ルベンさんは後でこっそり助け出そうと考えていたようでした。

すると、次に兄弟のユダさんが新たな提案をしました。

「弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから。」(聖書 創世記37:26 新共同訳)

そして、兄弟たちはヨセフさんを穴から引き上げて奴隷商人へと売り飛ばしてしまったのでした。奴隷になることは、死ぬよりも恐ろしいと思われていたようです。どうやらこの時ルベンさんは席を外していたようで、それを止めることができませんでした。

しかし、この奴隷商人が通りかかったことによって、ヨセフさんは命が助かったのでした。人間的に見れば、恐ろしい道へ足を踏み入れたように見えますが、これもヨセフさんを導く神様の大きな計画の中にあることでした。神様がヨセフさんを通して示された「夢」は、未来を預言しているものでした。神様の預言は、人間の力によって頓挫することはありません。