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「神の業」

杖が蛇へと変わるという奇跡を見せられたモーセさんは、もう一つの奇跡を見せられました。

主は更に、「あなたの手をふところに入れなさい」と言われた。モーセは手をふところに入れ、それから出してみると、驚いたことには、手は重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。主が、「手をふところに戻すがよい」と言われたので、ふところに戻し、それから出してみると、元の肌になっていた。 (聖書 出エジプト記 4:67 新共同訳)

蛇も驚きの奇跡でありましたが、今度の奇跡も更に驚くものでありました。この重い皮膚病は、不治の病として恐れられていたものでした。そのような病が、一瞬にしてモーセさんの手を覆ってしまいました。

蛇の時の驚きにも増して恐怖を感じたのではないかと思います。そして、更に驚くべきことに、神様の言葉通りに手をふところに戻すと、すっかり元の綺麗な手に戻ってしまったのでした。

そして、この驚くべき2つの奇跡を行われた神様はこのように言われました。

「たとえ、彼らがあなたを信用せず、最初のしるしが告げることを聞かないとしても、後のしるしが告げることは信じる。(聖書 出エジプト記 4:8 新共同訳)

 そして、神様の計画はまだ続きます。

しかし、この二つのしるしのどちらも信ぜず、またあなたの言うことも聞かないならば、ナイル川の水をくんできて乾いた地面にまくがよい。川からくんできた水は地面で血に変わるであろう。」(聖書 出エジプト記 4:9 新共同訳)

どちらも信じない存在に対しては、エジプトの中心であり人々の礼拝の対象であり命であったナイル川の水が血に変わるという切り札があることもしめされました。

神様は、この奇跡を通してモーセさんに選ばれしリーダーとしての確証を与え、エジプトで奴隷となっているイスラエルの民やファラオに対しても偉大な存在をしめそうとしておられました。

救いの計画は、人間の権力や力ではなく、神様の業がそこにあらわれることで成し遂げられていきます。

「尻尾を掴む」

自分が誰から遣わされたのかという確かな保証が与えられたモーセさんでしたが、それでもモーセさんは素直に召しを受け入れることができずに神様に問いました。

 そこで、神様はモーセさんの目の前で不思議な業を行われました。

 モーセは逆らって、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言うと、主は彼に、「あなたが手に持っているものは何か」と言われた。彼が、「杖です」と答えると、主は、「それを地面に投げよ」と言われた。彼が杖を地面に投げると、それが蛇になったのでモーセは飛びのいた。 (聖書 出エジプト記 4:1-3 新共同訳)

 モーセさんは羊の世話の途中でこの場所に寄り道をしましたので、モーセさんの手の中にあったのは羊飼いの必需品である杖でした。

 しかし、神様の言葉に従って地面に投げると杖が蛇へと姿を変えたのでした。杖が蛇に変わったことも驚きだったことと思いますが、何よりも突然蛇が現れたら飛びのくのも納得です。

 そんな中、神様は1つの難題を出されました。

主はモーセに、「手を伸ばして、尾をつかめ」と言われた。モーセが手を伸ばしてつかむと、それは手の中で杖に戻った。(聖書 出エジプト記 4:4 新共同訳)

どんな種類のどんなサイズの蛇だったかはわかりませんが、蛇を触ることすら無理という人がほとんどかもしれません。そんな中でも、蛇つかいという蛇を上手くつかう人たちは蛇の頭を掴んで捕まえるそうです。理由は、頭を掴めば噛まれないからです。

しかし、神様は頭ではなく尻尾を掴むようにと命じられました。これは蛇が苦手か得意かに関わらず、噛まれる危険性のある中で行うなかなかのチャレンジだったことと思います。

しかし、モーセさんはこの神様の言葉に従って尻尾を掴みました。すると、蛇に噛まれることはなく、もとの杖へと戻ったのでした。

このモーセさんの体験から、神様の言葉に信頼することの大切さを学ばされます。

「名前を聞かれたら」

そんなタイミングでも年齢でもないはずだったのに、神様から「今、行きなさい」と言われたモーセさんでしたが、その召しを受けるにあたり不安要素が尽きません。

モーセは神に尋ねた。 「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

(聖書 出エジプト記 3:13 新共同訳)

 前科者であるということも不安要素であったことと思いますが、ここでモーセさんが神様にぶつけた不安は、誰から遣わされたのかと聞かれたらなんと答えたらよいのかということでした。つまり、神様の名を聞かれたらなんと答えたらよいのかということです。

 そこで、神様は日本人の私たちにはなじみのない表現で自己紹介をされました。

神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(聖書 出エジプト記 3:14 新共同訳)

 わたしはある。つまり、存在している。存在そのものである。そして、命の源であり、永遠の存在である。この自己紹介からそのような神様を感じることができます。モーセさんを遣わされたのは、万物の源であるお方でした。これ以上の存在はいない。そのような偉大なお方が、モーセさんを遣わされました。そして、その方が共にいるという力強い約束をされました。

 イスラエルの人々をエジプトの奴隷から救い出されたこの偉大な神様は、私たちを罪の奴隷から解放してくださるお方です。

 これ以上の存在はいないという方が、私たちを愛し、救いのために働いてくださっていることは本当に驚くべき恵みです。

「今、行きなさい」

 モーセさんに語りかけた神様は、大切な使命を与えました。

主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

(聖書 出エジプト記 3:7-10 新共同訳)

 40年前、エジプトの地で若さと力、勢いをもって同胞を解放しようとしたモーセさんは、大きな失敗をしてこの地に逃げてきました。

 40年経った今、神様は年老いて力も弱り、勢いも失ったモーセさんに対して「今、行きなさい」と命じられました。

 モーセさんは理解に苦しみながら神様に問います。

モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」

(聖書 出エジプト記 3:11 新共同訳)

 何故、自分が選ばれたのか。失敗したし、前科もある。何よりも自分はそんなことができる年齢でもない。「何故私が?」モーセさんはそんな気持ちだったことと思います。

 しかし、神様はこのように約束されました。

神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」

(聖書 出エジプト記 3:12 新共同訳)

行きなさいと言われる神様は、その御言葉に従い働く者と共にいてくださることを通して約束を果たされます。

「聖なる方」

羊の群れを世話していた時、柴が燃えているのに燃え尽きない不思議な光景を見てそちらの方に進んで行ったモーセさんは、更に不思議な体験をすることとなりました。

主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」(聖書 出エジプト記 3:4-5 新共同訳)

 燃えているのに燃え尽きない不思議な場所から、モーセさんを呼ぶ声がしました。その声の主は、神様でした。神様は、モーセさんに足から履物を脱ぐようにと言われました。

当時はサンダルを履いて歩いていましたが、外を歩くと砂ぼこりなどで汚れてしまいます。同じように、私たちは心の面でも色々な不純物で満ちています。そのような汚れたままで神様のおられる聖なる場所に踏み入ることはできません。

 神様は、まず履物を脱ぐようにと言われました。そして、今度は御自分が誰であるかを明かされました。

神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。

(聖書 出エジプト記 3:6 新共同訳)

神様は、モーセさんの先祖たちの名前を挙げ、ご自分がどのような神であるかを告げられました。それは、モーセさんが幼かりし頃に母親から教えられ、自分が今身を寄せている家族と共に礼拝している神様からの声でした。

 天地を造られ、罪に陥った人類を救うために歴史を通して先祖たちに語り掛け、関わってこられた神様が、今、モーセさんの目の前に現れたのでした。

 罪人は、その履物を脱がなくてはならないほど聖なるお方のことを見ることができません。モーセさんはその神様を畏れ敬いつつ、顔を覆いました。

 神様は聖なるお方であり、そのおられる所は聖なる所です。そして、罪人にはその栄光がまぶしすぎて見ることはできません。

 それだけ偉大なお方であるにもかかわらず、私たちの神様は人間のそば近くまで来て語りかけてくださいました。それが、神が人となられたイエス・キリストというお方です。