投稿者「伊藤 滋」のアーカイブ

泉から湧く水

八ヶ岳山麓で行われたウォーキング大会に参加してきました。

スタート・ゴール地点は山梨県北杜市の“三分一湧水”でした。三分一湧水は、一日に8500tもの水が湧き出る水源地です。江戸時代、下流の村々の農業用水をめぐる争いを解決するために、湧出口の分水枡に三角形の柱を設置20141115泉から湧く水 (1)して湧水を三方向に均等に分けたことが名前の由来だと言われています。

水はいつの時代にも人間が生きていく上で欠かせない大切なものです。こんこんと湧き出る豊かな湧水を見、流れの音を聞いていると心が潤され、次の聖書の言葉が思い出されました。

 

あなた自身の井戸から水を汲み

あなた自身の泉から湧く水を飲め。

その源は溢れ出て

広場に幾筋もの流れができるであろう。

箴言5:15,16

「あなた自身の井戸」、「あなた自身の泉」とは何のことでしょうか?

「お前は何から生きる力を得ているのか」「どこに水を求めて生きてきたのか」と問いかけられているようです。

一見すると魅力的で、心を楽しませ、満たしてくれそうなものが溢れている世の中ですが、どんな時代にも変わらず私たちの心を満たし、潤してくれる確かなものがどれほどあるでしょうか。

イエス様は「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネによる福音書4:14)と言われました。

 

20141115泉から湧く水 (2)

イエス様が与えてくださる水、時代や状況の変化によって価値が失われることのない確かな水の源をしっかりと自分のものにするために―――日ごとに心を静めて聖書の言葉に向き合う時間を大切にしたいと思います。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

足を運ぶことの意味

長男の高校のPTAに出席するため、広島に行ってきました。広島までの道のりを車で往復するのはさすがに疲れましたが、久しぶりに広島三育学院のキャンパスに行くことが出来て本当によかったです。
20141108足を運ぶことの意味
私にとって広島三育学院は母校であり、かつての職場でもありますので、懐かしいよく知った場所です。しかし、「長男が高校生活をしている広島三育学院」を 私は知りませんでしたので、今回キャンパスに足を運び、息子が高校生活を送っている姿を直に見ることが出来たのは大きな収穫でした。インターネットや携帯電話が普及して、一昔前では考えられなかったようなことが出来るようになりました。離れた場所にいても、パソコンを介して相手の顔を見ながら会話をしたり、行ったことのない街の写真や情報を集めることが簡単に出来ます。しかしどんなにIT機器が進歩しても、実際にその場に足を運び、顔と顔とを合わせて同じ時間を過ごすことの価値は変わらないでしょう。 「 ※写真は広島三育学院の正門です。(撮影:村上創) 」

むしろ、足を運ばず、顔を合わさずに用事を済ませてしまう時代だからこそ、同じ場所に集まり、顔を合わせることの意義が増しているように感じます。

今から約2000年前、イエス様はこの地上に一人の人間として降りて来てくださいました。私たちと同じ空気を吸い、同じ苦しみを味わい、共に生きてくださいました。ただ口先だけで「あなたを愛しているよ」と言うのではなく、遠くから足を運び、共に生きることで私たちに愛を示してくださったのです。イエス様こそが「足を運ぶことの意味」を身をもって示してくださったお方です。

遠くから、主はわたしに現れた。

わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し

変わることなく慈しみを注ぐ。

エレミヤ31:3

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

光を受けて輝く

全国各地から紅葉の知らせが届いています。私は紅葉も好きですが、ススキの穂が太陽の光を受けて金色に輝いている風景が大好きです。この国に生まれてよかった!という気持ちになる瞬間です。

20141101光を受けて輝く

当たり前のことですが、ススキの穂そのものが光を生み出しているわけではなく、ススキは太陽の光を受けてこのように見事に輝いているわけです。

新約聖書に“バプテスマのヨハネ”という人物が登場します。彼はイエス様よりも少し早くイスラエルに現れ、人々がイエス様と出会うための道を備える働きをしました。たくさんの人がヨハネのもとに集まり、人々の間にはヨハネに対する期待が高まっていきました。しかし彼は、人々の心を自分に向けるためでなく、人々に救い主を伝えるために働くことに徹しました。聖書には次のように書かれています。

彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は世に来てすべての人を照らすのである。

(新約聖書・ヨハネによる福音書1:7~9)

「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」――私たち人間は、自分自身で光を発することは出来ません。しかしイエス様と出会い、イエス様のために生きるとき、イエス様の光を伝える器になることが出来るのです。ススキの穂が太陽の光を受けて輝くように、イエス様の光を受けて輝く、そんな生き方をしたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

求めなさい。そうすれば、与えられる。

ある夜突然、大切な友達がお腹を空かせて訪ねてきました。何か食べさせてあげたいのですが、残念ながら自分の家には食べ物が何もありません。あなただったらこんなときどうしますか?

これはルカによる福音書11章に出てくるイエス様のたとえ話です。この人は、真夜中だったにもかかわらず、食べ物を持っているもう一人の友達のところに行き「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達に何も出すものがないのです」(ルカ11:6)と訴えました。

20141025求めなさい。そうすれば与えられる

食べ物を持っている友人は「もう戸締りしてしまったし、子どもたちも寝ているから」と断ろうとしました。しかしこの人は諦めませんでした。「その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」(ルカ11:8)と書かれています。

そして、イエス様は続けて言われました。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる」(ルカ11:9)。

イエス様は、このたとえ話を通して私たちに「自分のために求める」のではなく、「助けを必要としている人のために求めなさい。そうすれば与えられる」と訴えておられるのではないでしょうか。

苦しんでいる誰かのために必死に祈り求める人をイエス様は探しておられます。「大切な人が病、悲しみや試練のただ中にいるけれど、自分には何もできない」と無力感にかられるとき、この「求めなさい。そうすれば、与えられる」という約束にすがって、大切な友のために祈り続けたいと思うのです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

人間を照らす光

今週から教会ホームページに短いお話しを掲載させていただくことになりました。あまり堅苦しい内容ではなく、折りに触れて感じたことや聖書の言葉をできるだけ分かりやすく書いていきたいと思います。なお、このホームページも皆さんに見ていただきやすいように少しずつ内容を整えてきたいと思っていますのでよろしくお願いします。


 

2週続けての台風も去り、一気に秋が深まってきました。

秋の楽しみと言えば…たき火です!
20141018人間を照らす光
わたしは秋の夜長に、たき火を見つめながらゆったりとした時間を過ごすのが大好きです。炎には不思議な魅力があります。電灯などの人工的な光にはない、あたたかさや柔らかさがあります。たき火の炎を見ていると、身体だけでなく心の中まであたためられていくような気がします。

以前読んだ本に、次のような言葉が書かれていました。

「あなたを押しのけて私は生きる」、結局このような生き方を私たちはしています。そうでもしなければ生きてゆけないとよく言われますし、確かにその生き方で獲得することは多いのです。しかし、獲得の喜びと生命の喜びとは別であることに注意しましょう。獲得の中で生命はむしろ不完全燃焼をかこっているのではないでしょうか。蝋燭が他を照らしながら自分自身は消滅してゆくように、燃焼とは本来他に仕えることなのです。「あなたが生きれば私も生きる」、これはお人好しではありません。燃焼を求める生命の訴えなのです。(藤木正三『神の風景』89ページ)

「燃焼とは本来他に仕えることなのです」という言葉が心に響きます。ロウソクやたき火が、自分自身を燃やしながら他を照らしあたためていくように、周りの誰かの幸せのために自分自身を燃焼させることができたら素晴らしいですね。そして、誰かをあたためるような生き方をするとき、結果として自分自身も輝き、あたためられているのではないかと思うのです。

この光は「人間を照らす光」であるイエス様からもたらされるものであると聖書は教えています。

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハネによる福音書1:4)

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋