投稿者「伊藤 滋」のアーカイブ

一年の計は…。

「勤勉な人はよく計画して利益を得/あわてて事を行う者は欠損をまねく。」(旧約聖書・箴言21:5)

早いもので2014年も残すところ2週間余りとなりました。2014年は皆さまにとってどのような一年だったでしょうか。そして来年はどのような一年にしたいと願っておられるでしょうか?

20141213一年の計は…。「一年の計は元旦にあり」と言われます。

これは、「計画は早めにしっかりと立てるべきである」との戒めの言葉ですが、元旦の日を、新しい一年の計画や目標を持って迎えるためには、前の年からその一年をきちんと振り返り、よかったこと・反省すべき点を踏まえて新しい年を迎える必要があるのではないでしょうか。

「ただでさえ忙しい12月、何とか今年一年を乗り切ることで精一杯!」という方もおられるかもしれません(わたしもそうです)。しかし、慌ただしい毎日の中、しばし心を落ち着けて今年一年を振り返ってみたいと思うのです。そうすることで新しい年を、また新しい気持ちで、それぞれの夢や目標に向かって一歩を踏み出すことが出来るのです。

私は2015年、聖書通読と個人的な祈りの時間を充実させることに再挑戦したいと思っています。

最近読んだ本の中で、ある牧師が次のように書いておられる言葉が心に留まりました。

わたしは早天祈祷会で旧約聖書を毎日一章ずつ講義することにしているが、旧約聖書は一枚ずつめくられていき、その厚さはだんだんと厚くなり、ついに全巻を終了し、現在二回目の詩篇にまできた。この厚さは祈りの厚さであり、旧約聖書におけるみことばを学んだ信仰の厚さでもある。わたしはときどきそれをながめてなんともいえない感激に心が満たされる。

(榎本保郎『教会づくり入門』106ページ)

来年の今頃、一年を振り返って「2015年は小さな一つ一つを積み重ねることが出来た大きな一年でした」と神様に感謝出来る、そんな年にしたいものですね。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

神によって置かれた場所

「自分を今、この場所に置かれたのは神様なのだ」という確信を持つ人の強さがあります。

先日、教会の皆さんと聖書を読んでいたとき、次の聖書の言葉が心に留まりました。

「人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。」

使徒言行録7:35

若い日に自分の仲間たちに拒否され、失意のうちにエジプトを去ったモーセでしたが、後に神様は彼を出エジプトのリーダーとして選び、モーセはこの特別な働きを成し遂げました。モーセの人生は困難の連続でしたが、「自分をこの働きに任命したのは人間ではなく、自分が信じている神ご自身なのだ」という確信は、彼を生涯支え続けました。

「生きてゆく」ということは、楽しいことばかりではありません。周囲に理解されず、一人ぼっちで涙を流すような日もあるでしょう。でも、そんなとき「自分を今、この場所に置かれたのは、神様なのだ」との確信を持つ人は、そこに踏みとどまることが出来ます。たとえ人に拒否されたとしても、神様が共にいてくださることを知っているからです。

「今、自分がここにいること」が苦しく感じるときにこそ、「わたしを今この場所に置かれたのは神様なのだ」という確信を取り戻したいと思うのです。わたし自身には目の前の困難を乗り越える力がなかったとしても、神様がわたしをここに導かれたのなら、乗り越える力も必ず神様が与えてくださるのですから。

20141206神によって置かれた場所

 

先日行われた結婚式の写真です。「神が合わせられたものを、人は離してはならない」(マルコ10:9)という聖書の言葉を共に心に刻みました。

 

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会

牧師 伊藤 滋

クリスマスコンサートのお知らせ

早いもので2014年ももう12月になります。クリスマスの季節を迎えました。

甲府キリスト教会では以下の通り、クリスマスコンサートを計画しました。

日時:12月6日(土)13:30~16:00

場所:セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会

プログラム内容:

  • ソプラノ独唱:桜井京(さくらいみやこ)
  • ピアノソロ演奏:横山智一(よこやまともかず)
  • みんなで歌おう希望の讃美歌

クリスマスコンサートポスター「甲府教会Cristmas Concert 2014」はこちらから

入場無料です。

皆さまのお越しを心よりお待ちしております。

神からいただく慰めによって

「慰め」や「励まし」について、考えさせられることがあります。

私たちは、自分が苦しみの中にあるときは「誰かに慰めて欲しい」と思いますし、誰かが苦しんでいるときには「何とかして慰め、励ますことはできないか」と考えます。

しかしどうでしょうか。私が苦しみの渦中にあったとき、慰めようとしてくれた人の親切を、素直に受け取ることが出来なかったことがしばしばありました。また誰かを「慰めたい」と思っているのに、なかなかその人の気持ちに沿うことができず、かえって傷つけてしまったことさえあったように思うのです。

人が人を「慰め」「励ます」というのは、実に難しいことだと実感させられます。

「慰め」ということについて、聖書には次のような言葉があります。 20141129神からいただく慰めによって

神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。

コリントの信徒への手紙2・1:4

この聖書の言葉は私たちに、二つの大切なことを教えています。

  • 神はあらゆる苦難に際して私たちを慰めてくださる、ということ。
  • 私たちも「神からいただく慰め」によって、苦難の中にある人々を慰めることができる、ということ。

何と素晴らしい約束でしょうか!?

「私の中から出る慰め」は人の心に力を与えることが出来ません。しかし、「神様からいただく慰め」には限界がないのです。どんな苦難の中にある人の心にも伝わり、慰める力があるというのです。

この聖書の約束を信じ、まず私自身が神様からの“この慰め”をしっかり受け取る者になりたい、と願っています。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

わたしは山々を仰ぐ

聖書の学びの会の皆さんと箱根に行ってきました。天候に恵まれ、富士山、仙石原のススキ、ロープウェーからは芦ノ湖や大涌谷、芦ノ湖スカイラインからは夕日に輝く駿河湾など、素晴らしい景色を堪能することが出来ました。

“山”には、私たちの心を惹きつける魅力があります。人間は自分よりも圧倒的に大きな存在と向き合うときに、自らのちっぽけさを思い知り、より確かなものへと心が向けられるものなのかもしれません。

詩編に次のような言葉があります。

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。20141122わたしは山々を仰ぐ

わたしの助けはどこから来るのか。

わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。

(詩編121:1,2)

 

私たちの人生にも失意のうちに「山々を仰ぐ」ような場面が、「わたしの助けはいったいどこから来るのだろうか…。」と思わずため息をついてしまうような苦しみのときがあります。

以前、なかなか出口の見えない試練の中にあったとき、詩編の言葉に力づけられました。詩編は神様への「本音の言葉」が書き連ねられています。自分の苦しみ、嘆き、不安や怒りをそのままぶつけている箇所があります。そしてそれらの叫びが、やがて神様への祈り、讃美、信仰の告白へと引き上げられているのです。

いままさに、途方に暮れる思いで「わたしは山々を仰ぐ」そんな日々を過ごしている方がおられるかも知れません。

神様ご自身が、あなたの痛みを祈りに、嘆きを平安に、うめきを讃美へと引き上げてくださいますように。詩編121:1,2の言葉は、次の祈りの言葉につながっています。

どうか、主があなたを助けて

足がよろめかないようにし

まどろむことなく見守ってくださるように。

(詩編121:3)

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋