投稿者「伊藤 滋」のアーカイブ

夜明け前に

朝ふとんから出るのがつらい、寒さの厳しい季節になりました。

一般的に一日の気温が最も低い時間は、夜明け前です。街中が寝静まっているような真夜中ではなく、もうすぐ日が昇る、その直前の時間帯が一番寒いのです。そしてひとたび太陽が昇り始めると、少しずつではありますが気温は上昇し、凍りついていた植物も生気を取り戻します。

「夜明け前が一番寒い」・・・これは気温の変化だけでなく、私たちの人生にも当てはまるような気がします。

自分が置かれている状況がつらく、厳しく感じられるとき、行く先に希望のかけらも感じられないようなとき、実はそんなときこそが「夜明け前」=「希望が一番近づいているとき」なのかもしれません。

2014-12-13 07.16.14


 

「週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。」

(新約聖書・ルカによる福音書24:1 口語訳聖書)

※写真は、甲府教会からの日の出と富士山です。

 


イエス様を心から愛し、従っていた女性たちがいました。彼女たちは、イエス様が十字架上で亡くなられた後、出来る限り早い時間―――それが「週の初めの日の夜明け前」でした―――墓に行きました。彼女たちの人生にとって最も暗くつらい「夜明け前」だったことでしょう。しかし、彼女たちはこの直後、イエス様の復活という大きな喜びを体験することになるのでした。

聖書は私たちに「夜明け」を指し示しています。それは私たちが願っているような形やタイミングでは与えられないかもしれません。しかし、失意のどん底にありながら、それでも救い主の墓に向かった彼女たちが素晴らしい「夜明け」を迎えたように、夜明けが近いことを信じて前進する者でありたいと思うのです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

後で分かるようになる

クリスチャンにとって、「毎日聖書を読むこと」はとても大切なことです。毎日聖書を読むことで、その日の自分に必要な糧を受けることができます。しかし、聖書を読み続けていると、難しい箇所・あまり聞き慣れないカタカナの名前が延々と続く箇所など、読み進めるのに忍耐力を求められることもしばしばあります。

そのような「壁」に突き当たったとき、「意味が良く分からない」と投げ出してしまうのか、諦めずに読み続けるのかが、ひとつの分岐点になるような気がします。私自身、この分岐点でストップしてしまったことが何度もありました。

「理解できない」ということは不安です。「理解できないのに読み続ける」というのは無意味に思えます。しかし、本当に「理解できないこと」=「無意味」なのでしょうか?


20150110後で分かるようになる

 

 

「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」

(新約聖書・ヨハネによる福音書13:7 新共同訳)

 

 


 

これは、ペテロの足を洗おうとしてイエス様が言われた言葉です。そしてこの言葉は、時代を超えてすべての人に語りかけられるイエス様の約束でもあるように思います。

「いま、あなたはわたしがしたこと(十字架の死)の意味が分からないだろう。そのことについて書かれた聖書の言葉を理解できないかもしれない。でも、後で(あなたの人生の一番ふさわしいときに)分かるようになるだろう」

この言葉をイエス様からの約束と思えたとき、理解できない聖書の言葉に突き当たっても、それほど気にならなくなりました。聖書の言葉の意味も、わたしの人生に起きる様々な理解不能な出来事も、「そういうことだったのか!」と心から理解することが出来る日が来るのです。このイエス様の約束に励まされて、今日という日を生きていこうと思います。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

主を知ることを追い求めよう


 

我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。

主は曙の光のように必ず現れ20150103主を知ることを追い求めよう

降り注ぐ雨のように

大地を潤す春雨のように

我々を訪れてくださる。

<旧約聖書・ホセア書6:3 新共同訳>

 


明けましておめでとうございます。今年も皆さまの歩みの上に、神様のお導きと祝福が豊かに注がれますように、心よりお祈りさせていただきます。

元旦の朝、近所の河川敷に初日の出を見に行きました。東の空に雲がかかっていて、少し遅れましたが雲の間から太陽が昇るのを見ることが出来ました。

2015年、どんな目標・夢をお持ちでしょうか。

わたしはこの一年、「もっと神様を知る者になりたい」と思っています。

自分はイエス様のことを「知ってるつもり」でいたかもしれないけど、本当に知っている(体験している)のだろうか?と反省させられることがしばしばありました。

神様を知るために、もっと聖書を読む。読んで終わり、ではなく、聖書に書かれていることを体験することが出来るように、聖書の言葉に聴き従っていく。真剣に取り組もうとするほど、色々な壁や妨げが自分自身の中にあることを痛感させられることでしょう。しかし、使徒パウロが「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている」(ピリピ人への手紙3:8)と語ったほどに、「主を知ることの絶大な価値」を自分自身のものとして体験したいと思うのです。

イエス様からの光に照らされ、イエス様からの恵みの雨に潤される、そんな一年を過ごすことが出来ますように。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

この病気は死で終わるものではない

今週、兼任している八王子教会ではクリスマスコンサート、そして教会員の方の告別式がありました。この機会に多くの方が教会に足を運んでくださいました。

「クリスマス」と「告別式」――全く違う種類の集会ですが、そこにはひとつの共通点があります。それは「死」ということです。

クリスマス…十字架の上で、私たちのために死ぬためにお生まれになったのがイエス様でした。東方からやってきた学者たちの献げものの一つは「没薬」(死者への贈り物)でした。

そして告別式は、故人を偲び、人間の命と死、そして天国への希望を聖書の言葉を通して再確認するために教会が行う大切な式です。

愛する人の死を受け入れるということは大きな悲しみを伴うことです。しかしわたしは今回の葬儀を通して、信仰を全うする生涯を送られた故人への尊敬の念、また式に出席された方々と故人とのあたたかい絆、そして聖書に約束されている天国への希望の素晴らしさを再確認させられました。

イエス様はラザロが死の床にあったとき、次のように言われました。


「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」(新約聖書・ヨハネによる福音書11:4)


 

聖書は病気や死を、「終わり」ではなく、「神の栄光を20141227この病気は死で終わるものではないあらわす機会」だと教えているのです。神様は確かに、故人の87年の生涯と、その死を通してご自身の栄光をあらわしてくださったと信じます。

2014年も残すところあとわずかとなりました。今もなお、悲しみや困難の中にある方々に神様の平安がありますようにと、心よりお祈りさせていただきます。

 

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会    牧師 伊藤 滋

クリスマスの喜び

いよいよクリスマス本番を迎えようとしています。プレゼントを贈り合ったり、ケーキを食べたり、パーティーをしたり…クリスマスならではの様々な楽しみがあります。あなたの「クリスマスの喜び」は何ですか?

20141220クリスマスの喜び


彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

マタイによる福音書2:9~11

※写真は、我が家のクリスマスツリーとアドベントカレンダーです。


東の国からやってきた博士たちが、イエス様がお生まれになった場所を指し示す星を見つけたとき、彼らは「喜びにあふれた」と書かれています。彼らの喜びは、目的地を見つけた喜びであっただけでなく、自分自身が大切にしてきた「宝の箱」を開けて、そのすべてを献げることのできる本物とついに出会った!という喜びでした。

ご自身の命を献げるためにこの地上に来てくださったイエス様のお誕生をお祝いする、クリスマス。

聖書がわたしたちに教える「クリスマスの喜び」は、「与える喜び」「献げる喜び」です。

今年のクリスマス、わたしたちの「クリスマスの喜び」を、「受け取る喜び」から、「与える・献げる喜び」としていきたいですね。寒さの厳しい季節ですが、イエス様のあたたかさが一人でも多くの人の心に届くクリスマスでありますように。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会     牧師 伊藤 滋