投稿者「伊藤 滋」のアーカイブ

目を留められる神

「わたしのこと、覚えていますか?」

そう声をかけられてドキッとした経験がありませんか?

わたしはあります。たとえば、立派に成長して見違えるほど立派になった青年としばらくぶりに再会して、とっさに名前が出てこないようなとき、冷や汗をかきながら必死に記憶の糸を手繰り寄せるようなときです(「○○です。覚えていますか?」って言ってくれたらとても助かるんだけど…と思いながら)。

しかし、この「わたしのこと、覚えていますか?」という言葉は、どんな人の心の中にもある「自分のことを心に留めている人がいるのだろうか」という根源的な問いでもあるように思うのです。

イエス様の隣りで十字架につけられた犯罪人は、死を前にして「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました(新約聖書 ルカによる福音書23:42 新共同訳)。

物事がうまくいかないとき、人間関係が行き詰ってしまうとき、手痛い失敗をして自己嫌悪に苛まれるとき、わたしたちは「自分なんていない方がよかったのではないか」とか「だれも自分のことを必要としていないのでは」と思い悩みます。

しかし聖書によれば、神様はそんなわたしたちを決して忘れることなく、どんな状況にあっても目に留めていてくださるというのです。


 

主は天から見渡し20150214目を留められる神 

人の子らをひとりひとりご覧になり

御座を置かれた所から 

地に住むすべての人に目を留められる。

人の心をすべて造られた主は 

彼らのわざをことごとく見分けられる。

(旧約聖書・詩編33:13~15 新共同訳)

 


私たちの人生には、冷たい北風を必死に耐え続けなければならないときがあります。

そんなときにも「神様が目を留めていてくださる」この約束から平安を受け取って生きていきたいと思います。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

「み言葉と食事を食べる会」のお知らせ

金曜日の夕方、教会に集まって共に食事をし、聖書の言葉を味わう、そんなひとときを持ちませんか?

わたしたちの教会では、一カ月に一回ですが、「み言葉と食事を食べる会」を持ちます。

皆さまのお越しをお待ちしております。

日時:2015年2月13日(金)17時~18時30分(予定)

場所:セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会

今、光は見えないが…。

二週続けての積雪予報が出ていましたが、今週はほとんど積雪もなく、ホッとしたような残念だったような気持ちになりました。

厳しい寒さが続きますが、身の回りに「春の兆し」が少しずつ現れつつあるのを感じる季節になりました。

写真は、自宅前のプランターです。よく見ると土の中からチューリップが芽を出し、少しずつ成長しているのが分かります。雪が降り、毎朝霜が降りる厳しい寒さの中にあって、土の中では新しい命が少しずつ、しかし確実に成長しているその姿に励まされる思いがします。

聖書の中に次のような言葉があります。


20150207今、光は見えないが…。

今、光は見えないが

それは雲のかなたで輝いている。

やがて風が吹き、雲を払うと

北から黄金の光が射し

恐るべき輝きが神を包むだろう。

(旧約聖書・ヨブ記37:21,22 新共同訳)

 


私たちの人生は、「今は見えない光」を手探りで探すようなものかもしれません。いつも自分の目の前の道がハッキリと見えているわけではありません。しかし、「光が見えない」ということは「そこに光がない」ということではありません。

聖書は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と教えています(ヘブライ人への手紙11:1 新共同訳)。

愛を込めて私たちに命を与え、私たちの人生を導いて下さるお方が確かにおられる。私たち自身は揺らぐことがあっても、このお方は決して揺らぐことがない。そのことをいつも心に刻みながら、日々を生きていきたいと思います。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

思いを込めて造られた

神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。

(旧約聖書 創世記1:31・新共同訳)


美術大学の卒業制作展を見学する機会がありました。日ごろなかなか触れる機会のない大学のキャンパスや作品を見学して有意義な時間を過ごすことが出来ました。

それぞれの作品には、制作者がどんな思いを込めて制作にあたったのか、解説の文章が添えられており、それを読みながら作品を見ることで、作品や制作者の思いを知ることが出来て非常に興味深く感じました。会場で頂いたパンフレットにこのような言葉が書かれていました。

「(この制作展は)単なる作品展示の場ではありません。同時にそこは、これまでの学修成果が最終的に評価される真剣勝負の場でもあります。そのような空気を感じながら、私たちの造形活動を是非ご覧ください。」

「ものをつくる」ということは、真剣勝負であり、「つくられたもの」には作者の熱い思いが込められています。「土の器」という讃美歌の中に、次のような言葉があります。


 私たちは土の器 あなたの思いを込めて造られた20150131思いを込めて造られた

私たちは土の器 あなたの光で輝く器

どうかわたしが 自分を嘆かぬように

あなたに造られた その意味を忘れぬように

(作詞・作曲:若林栄子『土の器』より)

 


私はこの「あなたの思いを込めて造られた」という歌詞に何度も慰められました。

自分で自分自身のことをどのように感じていようとも、「わたしは神様が思いを込めて創造された作品なのだ」ということを思い出させてくれるからです。

私たちの人生には、ひどい失敗に打ちのめされたり、全く自信を失ってしまうような日があります。しかし、神様がわたしを「思いを込めて造られた」ことを思い出すとき、心に希望が湧いてくるのです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

この唇の訴えに耳を傾けてくれ

聖書は私たちに「聞くことの大切さ」を教えています。

しかし、私たちは神様に対しても、人に対しても「聞く」ということが、あまり得意ではありません。

祈りのとき、自分の願いを神様に訴えることに忙しく、神様からの声に耳を傾けることを忘れてしまう。

人の話を聞くよりも、ついつい自分がしゃべってしまう。

相談に来てくれた人の力になりたくて、自分が思いつく限りのアドバイスを!と、しゃべりまくってしまい、失望した表情で去って行ってしまった…というような失敗を何度繰り返したことでしょうか。

 


 

20150124この唇の訴えに耳を傾けてくれ

 

「どうか黙ってくれ

黙ることがあなたたちの知恵を示す。

わたしの議論を聞き

この唇の訴えに耳を傾けてくれ。」

(ヨブ記13:5,6・新共同訳)

(写真は、自宅からの夜明けの空です。)

 


立て続けに起きた試練に身も心もズタズタになり、苦しんでいたヨブのもとに3人の友人がやってきます。彼らは苦しみの中にあるヨブに正論を振りかざします。彼らの言葉はいずれも正しいものでしたが、それは苦しみの中にあるヨブが必要としていたものではありませんでした。たまりかねてヨブが彼らに言ったのが先の言葉でした。

「この唇の訴えに耳を傾けてくれ」・・・ヨブと同じこの叫びが、今日私たちの周りでも声なき声となって響いているのではないでしょうか。

神様は私たちに「静まってわたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10・口語訳)と呼びかけています。心を静めて神様の言葉を聞く者に、そして人の言葉に心から耳を傾けられる者となりたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋