またまた、直前の告知になってしまいました、、、。
本日17時より、「み言葉と食事を食べる会」を行います。
聖書の言葉をみんなで読み、そこから受けた恵み・考えさせられたことを自由に語り合い、一緒に食事を食べる楽しい集会です!
毎回おいしい食事が用意され、個人的にもとても楽しみなひとときになっています。
皆さまのお越しを心よりお待ちしております。
写真は過去の「み言葉と食事を食べる会」の様子です。
今週、ADRAJapanのネパール駐在スタッフの方による一時帰国報告会、「ネパールの『今』をお伝えします」に出席しました。
この地震によって8000人以上の方が犠牲になり、79万棟の建物に被害を受け、800万人が住まいを失いました。そのネパールで、ADRAが様々な支援をしている様子を知ることが出来ました。
「よその国からきた自分たち援助団体が1から10まですべてを援助するのではなく、ネパールの人たちが自信と誇りをもって自立していくために、黒子に徹して後からサポートして行きたい」というお話を聞いて、非常に考えさせられました。
ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。
(新約聖書 使徒言行録3:6,7 新共同訳)
倒れている人を立ち上がらせる働きが必要とされています。
ただ立ち上がらせるだけでなく、その人が「自立」できるようにサポートすること。自然災害に遭った方々に対してだけでなく、私たちが周りの方々と接する際にもあてはまる大切なことではないでしょうか。
ペテロは生まれつき足の不自由な人に、彼が求めてきたお金は与えず、「キリストの名によって立ち上がる」手助けをしました。
自分の足で立ち上がったこの人は、神様を讃美しながら神殿に入っていきました。
私たちが神様を信じていることが、何らかの形で、傷つき倒れている人の「自立」の助けにつながるようなものでありますように。
セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋
※写真は、学生時代にネパールで診療所建築のボランティアに参加したときのものです。
息子の中学校の運動会に行ってきました。天候も支えられ、楽しい一日を過ごすことが出来ました。
運動会で一番盛り上がる種目は…おそらくリレーでしょう。リレーにはドラマがあります。一番足が速い選手がいるチームが勝つとは限りません。ずっと先頭を走っていたチームが最後にバトンを落として逆転されてしまうこともあります。走る選手たちばかりでなく、観戦する人たちもハラハラどきどきしながら声援を送ります。
自分も学んだ母校のグラウンドを走る息子の姿を、両親と共に見守りながら、目の前で繰り広げられているリレーの勝敗だけではない、色々なことを考えさせられました。
「自分は、親や恩師、人生の先輩たちからバトンを受け取っただろうか?」
「受け取ったバトンをしっかり握って、自分のレースを走っているだろうか?」
「自分が受け取ったバトンを、次の世代に手渡しているだろうか?」
今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。
(旧約聖書 申命記6:6,7 新共同訳)
神様は聖書の言葉を通して、「あなたが受け取った大切なものを、次の世代にしっかりと手渡しなさい」と、繰り返し私たちに呼びかけておられます。私たち一人一人も、神様からの大切なバトンを託されたリレーの選手です。あなたは受け取ったバトンを、次の走者に渡しましたか?
セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋
病気療養中のSさんが、5月18日早朝にしばしの眠りにつかれました。今でも目を閉じると、Sさんの笑顔、優しい中にも強い意志のこもったまなざし、力のある言葉が胸の中によみがえってきます。
葬儀の前に、ご家族の皆さんから色々なお話を聞かせていただきました。その中で非常に印象に残ったのは、Sさんの聖書にまつわる次のお話でした。
お孫さんが「おじいちゃんの聖書ちょうだい」と言って、Sさん愛用の聖書を譲り受けた。やがてお孫さんがその聖書を読むようになり、おじいさんの聖書に引かれた赤い線に導かれるように教会に通うようになり、洗礼を受け、今では牧師夫人として教会を支えておられるとのことでした。
聖書の言葉には人を活かす力があり、その力はその人のみにとどまるのでなく、周りの人たちや次の世代にも拡がっていくのだということを改めて教えられました。
神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。
(新約聖書ヘブル人への手紙4:12 口語訳)
自分はこの「生きた神の言葉の力」を知っているだろうか?どれほど体験して来ただろうか?…Sさんがそうだったように、自分も真摯な思いで聖書と向き合っていきたい、そんな思いにさせられました。
セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋
自分が傷ついているとき、傷の痛みが気になります。そんなとき、ある人に「自分の傷のことばかり考えていると、なかなか傷の痛みを忘れることができないけど、誰かの傷に包帯を巻くことを考えていると、いつのまにか自分の痛みを忘れられることがあるよ」とアドバイスをいただいたことがありました。
クリスチャン作家の三浦綾子さんがその作品の中で次の言葉を残しておられます。
「包帯を巻いてあげられないのなら、むやみに人の傷にふれてはならない。」(三浦綾子『続・氷点』より)
三浦さんの言葉にありますように、むやみに「人の傷」にふれることは避けるべきでしょう。しかし、自分の傷ばかりに向いていた意識が、周りの人の回復や幸せに向けられていくとき、ほかでもない自分自身の傷が癒されていくということも確かにあるように思うのです。
わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて
虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え
さまよう貧しい人を家に招き入れ
裸の人に会えば衣を着せかけ
同胞に助けを惜しまないこと。
そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で
あなたの傷は速やかにいやされる。
(旧約聖書 イザヤ書58:6~8 新共同訳)
「(苦しみの中にある人に自分が出来ることをしていくとき)そうすれば…あなたの傷は速やかにいやされる」という聖書の言葉に希望を与えられます。わたしたちが誰かのためにさせていただくことは「誰かのため」であるばかりでなく「わたし自身のため」でもあるのです。わたしたちの様々な人とのつながりが、共に重荷を負い合い、共に癒される機会になっていきますように。
セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋
※陣馬山登山道からの富士山の眺めです。