投稿者「伊藤 滋」のアーカイブ

すべての人を照らすまことの光

7月30日~8月2日の4日間、沖縄で全日本青年大会が開催され、国内外から120名が集まりました。わたし自身は「青年」という年齢はすっかり超えているのですが、スタッフとして青年大会に参加させていただきました。

大会のテーマ聖句は、ヨハネによる福音書の次の聖句でした。


 

その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

(新約聖書 ヨハネによる福音書1:9 新共同訳)


 

毎日の礼拝やセミナーなどを通して、すべての人を照らすために来てくださったまことの光であるイエス・キリストについて、そしてわたしたちがいかにして世の光としてイエス・キリストの光を輝かすことが出来るのかを学び、分かち合いました。安息日には参加者120名がグループに分かれ、沖縄県内16箇所の教会を訪問しました。教会の皆さんがあたたかく迎えてくださり、また青年たちの生きた証しを聞くことでたくさんの祝福をいただく安息日になりました。

最終日の夜には、献身会がもたれました。4日間自分が受けたこと、学んだことを振り返りながら具体的に自分が置かれた場所で何を始めることが出来るのかを考えました。献身会の最後にはキャンドルサービスをしました。小さなろうそくの光が少しずつ伝わり、拡がっていくように私たちもイエス様の光を周囲に伝える小さな光として生きていきたい、その思いを新たにさせられました。

IMG_20150806_202232青年大会は終わりましたが、神様によって集められた一人ひとりが、それぞれの場所でイエス様の光を現わし続けるよう祈ります。

甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

 

 

※写真は、献身会のキャンドルサービスの様子です(撮影:パラコル・マービン)

意味を知る

30657健康のため、散歩をしています。朝の涼しい時間に、あるときには駅までの移動など、少しの時間でも歩くことで心身ともにスッキリすることが出来ます。

何事も長続きしないわたしに、散歩をするための動機付けを与えてくれるのが、歩数計です。歩数計そのものに運動効率を高めたり、体を健康にする力があるわけではないのですが、歩数計をつけて生活することで「あと少しで今日も1万歩だ。もう少し歩いてこよう」というように、今日一日何歩歩いたのか(だいたい何キロ歩いてそれくらいのカロリーを消費したのかなど)が分かることで、体を動かすことに前向きな気持ちになることが出来ます。

スポーツ選手は厳しいトレーニングに耐えます。そのトレーニングに意味があることを知っているからです。人は意味のある苦しみには耐えられます。しかし、意味や価値の見えない試練は本当に苦しいものです。「なんでこんな目に遭うのか」「この苦しみにどんな意味があるのか」等など…。

試練の中で折にかなって与えられる聖書の言葉は、歩数計のように、自分が遭遇している苦しみの意味を教えてくれます。そのときにすべてを理解できなくとも、神様が目的と計画をもって自分の人生を導いていてくださる、という安心感をもって生きることができるのです。


神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。

(新約聖書 ローマ人への手紙8:28 口語訳)


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※写真は、全日本青年大会(7月30日~8月3日)が開催されている沖縄県金武町の「ネイチャーみらい館」の様子です(撮影 金雅映)。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会

牧師 伊藤 滋

答え合わせの時間

兼任の八王子教会で、今年も夏休み聖書学校がもたれました。今年はゲームの時間に「追跡ミニ探検」をしました。

「追跡ミニ探検」とは、数人ずつのグループに分かれ、用意された「指令書」(コースの手がかりになる写真が掲載されているプリント)を元に、教会の近くの定められたコースを歩きながら全11問の質問に答えるというゲームです。

最初の問題は割と簡単でしたが、その後は難問が続き、同じグループの子どもたちと頭を抱えながらコースを回りました。最後まで答えが分からなかった問題がいくつかあり、悔しくてすっきりしない気持ちを抱えてゴールしました。20150725答え合わせの時間HP②

 

全員が教会に戻り、先生が「答え合わせ」をしてくれました。

先生が「この問題の答えが分かった人?」と聞くと、正解がわかった人たちは自信たっぷりに「はい!」と答えます。あれだけ考えたのに答えが分からなかった人たちも、正解が発表されると「なるほど!」「そうだったのか!」という反応でした。

 

私はこの「追跡ミニ探検」は、少し大げさかもしれないけど、人生の縮図のように感じました。

私たちも、それぞれの人生の中で、たくさんの「問題」が出題されます。

答えがすぐに分かるものもあれば、どんなに考えてもそのときには答えが分からない問題もたくさんあります。

でも、「答え合わせ」のときが用意されていて、そのとき、自分が経験した出来事の本当の意味を知ることが出来る。聖書の中に使徒ペテロの次のような言葉があります。


 

「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして…わたしを救い出してくださったのだ」

(新約聖書 使徒言行録12:11 新共同訳)


 

悩み、苦しみ、病、理不尽・不条理に感じられる様々な現実…それらの意味が明らかにされて「今、初めて本当のことが分かった!」と神様に感謝することのできる日が一日も早く来ますように。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

 

※昼食はみんなで流しそうめんを楽しみました。

 

20150725答え合わせの時間HP①

太陽も雨も

先週は梅雨の長雨で、これでもか!というくらい雨が続きました。わたしはもともと雨がそんな嫌いではないのですが、それでもここしばらくの長雨には参りました。プランターで育てているバジルは順調に成長していたのが、日照時間が少なかったのでしょうか、葉っぱが黒ずんできて、カビが生え、ついに半分以上枯れてしまいました。

そんな長雨が続きましたが、先週の金曜日、久しぶりに青空が戻ってきました。青空を見たときの喜び!日差しを浴びて肌がじりじりと焼ける感覚。生き返ったような気持ちがしました。

11日は甲府教会に出席しました。この日の甲府の最高気温は35度。そして13日の八王子の最高気温は37度でした。

つい数日前に「太陽が恋しい!」と思っていましたが、暑い日が続くと「雨が降ってほしい」と思う。我ながら人間って勝手なものだなと思います。

甲府で桃の栽培に詳しい方のお話を聞きました。雨が続き過ぎると実が重くなりすぎて、収穫前に落ちてしまうそうです。雨が降らなくても実りが悪くなるが、日照が不足しても困る。人間も植物も「ちょうどいい塩梅」というのが難しいのですね。 太陽も雨も20150718

イエス様は次のように言われました。

父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。

(新約聖書 マタイによる福音書5:45 新共同訳聖書)

私たちの人生にも「晴れの日」と「雨の日」があります。神様は私たちに「太陽」も「雨」も、その両方が必要であることを知っておられるからです。厳しい暑さや台風の中にあっても皆さまの安全が守られ、すべての必要が満たされますようにお祈りさせていただきます。

※写真は夏の日差しが戻って来た八王子市内の様子です。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

見えないものに目を注ぐ

転勤のため、ある教会を離れる際に、書道の先生でもある教会員の方から聖書の言葉の書かれた色紙をいただきました。私がリクエストした聖句をわざわざ書いて贈ってくださったのです。そこには次の聖書の言葉が書かれています。

20150711見えないものに目を注ぐ②

 


 

わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

(新約聖書 コリント人への第二の手紙4:18 口語訳)

※写真はそのとき頂いた聖句の色紙です。


 

このとき何を思ってこの聖句をリクエストしたのか、はっきり思い出すことはできません。いつも表面的なものにとらわれ、その中で一喜一憂していた自分を戒める言葉が必要だ、そんな思いだったのかもしれません。

あれからもうすぐ15年が過ぎようとしています。色々なことがありましたが、ときにこの聖句に励まされ、ときに思いを正されながら今日まで過ごしてきました。

この短い聖句は様々なことを私たちに訴えかけてくるように思います。

 

「見20150711見えないものに目を注ぐ①えるもの」の背後に「見えないもの」がある。

「見えるもの」は、「見えないもの」に支えられている。

人は「見えるもの」によって評価するが、「見えないもの」に目を注いでおられる方が、確かに存在しておられる…。

 

15年来、部屋の壁に掲げられた色紙の言葉が、今日も私を見守っています。この言葉に励まされ、大いに勇気づけられる日もあれば、この言葉の前に「穴があったら入りたい」ような気持ちにさせられる日もあります。

今日一日も、信仰によって「見えないものに目を注ぐ」生き方をしていきたいものだと願っています。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋