投稿者「伊藤 滋」のアーカイブ

あなたの傷を癒す主

久しぶりに山歩きがしたくなり、陣馬山に登ってきました。陣馬山は標高857メートルとそれほど高い山ではありませんが、山の自然を楽しむことが出来ました。

「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし」これは徳川家康が残した言葉だと言われていますが、確かに旅と人生にはいくつかの共通点があります。2015-09-28 11.01.57

一歩一歩順調に進むときがあれば、壁に直面し、頑張ってもなかなか先に進めず、出発点に逆戻りしてしまったように感じる日もあります。自分の弱さに泣く日があれば、世間の冷たい逆風に苦しめられることもあります。しかし、困難を乗り越えて目的地にたどり着いたとき、大きな達成感と喜びを体験することが出来ます。

聖書の次の言葉に、とても心励まされたことがありました。


 

さあ、わたしがお前の傷を治し/打ち傷をいやそう、と主は言われる。人々はお前を、「追い出された者」と呼び/「相手にされないシオン」と言っているが。主はこう言われる。見よ、わたしはヤコブの天幕の繁栄を回復し/その住む所を憐れむ。都は廃虚の丘の上に建てられ/城郭はあるべき姿に再建される。

(旧約聖書 エレミヤ30:17,18 新共同訳)


20151003打ち傷を癒される主傷がなかなか癒えず、周囲からの様々な声に苦しむときも、神様は私たちの癒しと回復を願い、そのために働いていてくださるのだという、神様の真実に心励まされます。出口がなかなか見えてこない試練や、困難のただ中にあっても、目の前の現実だけに心を向けるのでなく、信仰によって、それらの現実の向こう側にある神様の真実にすがるとき、心にスッと光が射してくるような希望を受け取ることが出来るのではないでしょうか。人生の厳しい山道を進んでいるあなたが、神様の言葉に力づけられて、無事に目的地にたどり着くことが出来ますように。

 

※写真:陣馬山登山道で。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

一緒に食事をする

私たちの教会では、毎月第二金曜日の夕方にべスパーをしています。日によって集まる人数は違いますが、回を重ねるごとに、少しずつ参加者同士の交2015-04-10 18.06.58わりが深まっているのを感じます。夕方5時に教会に集まり、讃美歌を歌って、それぞれがどんな1週間を過ごしたか、語り合います。その後、みんなで聖書を読み、その箇所から受けた恵みや疑問に感じたことなどをシェアします。聖書の学びの後は食事です。美味しい食事をいただきながら、色々な話に花が咲きます。

べスパーを通して、「一緒に食事をすること」「一緒に聖書を読むこと」は、非常によい交わりの機会になることを改めて実感しています。いままで気がつかなかったお互いの色々な面を発見し、べスパーを通じてお互いを身近に感じられるようになっています。


 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

(新約聖書 使徒言行録2:46,47 新共同訳)


 

この聖句を読むと、初代教会でも「一緒に食事をすること」「共に神様を礼拝すること」に、力を注いでいたことが分かります。パウロは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)と勧めていますが、「一緒に食事をし、神様を礼拝する」ことは、「喜びや悲しみを分かち合う」ことにつながっていくのではないかと思われます。

「同じ釜の飯を食う」という言葉がありますが、教会に集まり、食事や聖書の学びを共にしながら親しい家族のような交わりの輪を広げていきたいと願っています。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

20150926一緒に食事をすること

キリストの香り

20150919キリストの香り今週「秋だなあ!」と感じる瞬間がありました。散歩をしていると、どこからともなく金木犀の匂いが漂って来ました。今年初の金木犀の匂いでした。金木犀は、秋になると木の姿を見るよりも先に、匂いでその存在が分かります。

「香り」というのは伝わっていくものです。今週読んだ本に次のような逸話が紹介されていました。

「ある牧師が駅で靴磨きをしてもらおうとしました。混み合っていたので、靴磨きのおじさんは、次から次と靴を一心に磨いていて、その靴をはいている人がどんな人なのか、見るいとまもありません。やっと順番が回って来て、磨き終えると、このおじさんがふと顔を上げて、次のように言ったというのです。『あなたの靴を磨いていると、不思議にいつまでも磨いていたくなります。さっさと終わりたいとか、磨きたくないという気持ちにさせるお客さんもいるんですが…』。

私はこのお話をきいて、非常におもしろいことだと思いました。人には、その人なりの雰囲気があって、漂っているということです。ちなみに、その人は、キリストの香りと呼ぶにふさわしい麗しさを備えたかたでした。」(工藤信夫『援助の心理学』84ページ)

私たちが声高に叫ぶものではなく、むしろ自然体のその人の雰囲気が周りの人に伝わっていくものなのかもしれません。福音書には、イエス様の周りに世間からつまはじきにされた人たちや、子どもたちが集まって来た様子が繰り返し記録されています。私たちもキリストの香りを放つ者とさせていただきたいですね。

「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。」

(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 2:15 新共同訳)

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

 

セールスマン

長男が生まれて間もない頃のことでした。教会の呼び鈴が鳴ったので急いで玄関に行くと、一人の男の人が立っていました。掃除機のセールスマンでした。我が家にももちろん掃除機はありましたので丁重にお断りしたのですが、なかなか帰ろうとしません。「話を聞くだけでも結構ですから!」と言うので、話だけならと中に入ってもらい説明を聞きました。

渋々彼の話を聞き始めてから、およそ1時間後…いま思い出して自分でもビックリなのですが、何と、ビックリするくらい高額なその掃除機を購入してしまったのです!

セールスマンのトークと情熱に圧倒されてしまったのを覚えています。彼曰く、自分もこの掃除機を自宅で使っている、彼自身、この掃除機に心底惚れ込んでいる、とのことでした。

今でもこの掃除機の魅力を熱く語っていたセールスマンのことを時々思い出します。そしてわが身を振り返るのです。果たして自分は、彼の商品への思いに負けないくらいの情熱を持って神様のことを伝えているだろうか?彼の気持ちに負けないくらい、自分が伝える神様のことを知り、神様の言葉に心底惚れ込んでいるだろうか?と…。

仕事だから人に勧めているけど、自分個人としてはそこまで惚れ込んでいない…そんな人から勧められる商品が、魅力あるものとして人々の心に伝わっていくでしょうか?

パウロは次のように言っています。


 

もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。

(新約聖書 コリントの信徒への手紙9:16 新共同訳)

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

セールスマン20150912

※湖の畔に咲くアザミの花(2011年9月23日 長野県信濃町野尻湖で撮影)

へりくだる

「本当の謙虚さを持っていたら、どんな教会に行っても大丈夫だよ」

自分は将来牧師としてやっていけるのだろうかと不安でたまらなかった私に、恩師の牧師がかけてくださった言葉です。

この言葉を聞いたとき、「自分は能力も経験も足りない。でも『謙虚でいられたら大丈夫』なのであれば、自分でもやっていけるかもしれない」と思い、ホッとしてしまったことを今も覚えています。何と傲慢だったことでしょう…。後に教会で働くようになってから、この先生の言葉の本当の意味を少しずつ理解するようになっていきました。「本当の謙虚さ」を持つことが、自分にとってどれほど難しいことか。様々な出来事や人とのかかわりの中で自分が「本当の謙虚さ」からどれほどかけ離れているかを思い知らされることが、今も続いています。

20150905へりくだる

「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」ということわざがあります。これは、稲が実を熟すほど穂が垂れ下がるように、人間も学問や徳が深まるにつれ謙虚になっていくものだということを教えた言葉です。しかし私たちは、歳を重ね、経験を積むごとに、自分の知識や経験にしがみつき、「謙虚」であることが難しくなってしまう側面を持っていないでしょうか。

 

聖書は次のように私たちに勧めています。


 

互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

(新約聖書 フィリピの信徒への手紙2:5~8 新共同訳)

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※収穫を待つ稲穂(茨城県かすみがうら市で)。