投稿者「伊藤 滋」のアーカイブ

わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう

東京近郊の数名の牧師で北浦三育中学校を訪問しました。一泊二日の限られた時間でしたが、礼拝や授業を担当したり、生徒や先生方、一緒に訪問した牧師たち、日ごろなかなか話す機会のない人たちと交わり、有意義な時間を過ごすことが出来ました。

お互いの働きの喜びや苦労、抱えている重荷を分かち合う時間を過ごしたことで、自然と「自分もまた思いを新たに頑張ろう!」という気持ちになりました。

人の話を聞いたり、自分の話を人に聞いてもらったりしても、自分の前に立ちはだかっている問題の大きさ自体は変わりません。しかし、「自分だけが苦労しているんじゃない」「自分のことを理解して応援してくれる人がいる」「自分は一人じゃないんだ」という事実に気付くことで、もう一度立ち上がる元気をもらえるんだなあと感じました。


 

神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

(旧約聖書 創世記2:18 新改訳)


 

20151024わたしは彼のためにこれはアダムに妻エバを与えようとして言われた神様の言葉です。私たち人間が一人では生きられない、助け手を必要とする存在であるということは、結婚生活だけに限定されることのない人間の現実です。

神様が、そんな私のためにふさわしい助け手を備えていてくださる。行き詰まりや不安の中にある私たちへの聖書の約束です。家族や友人、職場や教会の仲間など、私たちはたくさんの人の中で生かされています。その中で自分に与えられている助け手に感謝し、自分もまた、誰かの助け手としての役割を果たしていきたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

すべての民の祈りの家と呼ばれる

以前働いていた教会でのことです。その教会は公立中学校に隣接した場所に建っていましたので、校舎からはいつも元気な中学生の声が聞こえてきていました。ある日、教会の呼び鈴が鳴ったので急いで玄関に行くと、一人の中学生が立っていました。「礼拝堂でお祈りをさせてもらってもいいですか?」と言うので早速礼拝堂に案内すると、彼はそこに座って一生懸命に祈り始めました。お祈りが終わって帰るとき「何かあったの?」と声をかけると、「高校の受験が近づいて来たり、他にもいろいろ辛いことがあったのでお祈りしたい気持ちだったんです。」と話してくれました。その場所に教会が建っていること、そして中学生がその教会に祈るために来てくれたことがとても嬉しかったのを覚えています。

教会は、いつもそこに集まって来るクリスチャンだけの建物ではありません。イエス様は言われました。


「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」

(新約聖書 マルコによる福音書11:17 新改訳)


20151017すべての民の祈りの家と呼ばれる教会という場所が、教会員だけでなく、ご近所に住む人やそこを通りかかった人たち、日ごろなかなか教会に来る機会のない人たちにとっても、何かがあったとき(あるいは何もなくても)そこに足を運び、神様に祈り、心を静められる場所であったら何と素晴らしいことでしょうか。教会が「すべての民の祈りの家と呼ばれる」場所へと成長していくように願っています。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

三育学院大学の皆さんによる教会訪問

10月10日の安息日礼拝は、三育学院大学看護学生の皆さんによる音楽礼拝でした。

「主に帰ろう」というテーマでの音楽礼拝でした。美しい讃美とまっすぐな心からの証し、そして皆さんの存在そのものがあたたかいメッセージとなって伝わって来る、とても祝福された礼拝となりました。

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午後は、神学科教員の近藤光顕先生より、「伝道学概論」のお話を聞くことが出来ました。

安息日礼拝のメッセージと合わせて、自分たちの信仰や教会のあり方、その信仰を周りの方々にお伝えしていくということについて、もう一度考える良い機会となりました。

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とても恵まれた安息日になりました。ご奉仕くださった三育学院大学の皆さんと、神様に感謝です。

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べスパーの報告

10月9日(金)はべスパーでした。今回は、三育学院大学から、近藤光顕先生と、看護学生の皆さんが来てくださって、いつもよりさらににぎやかなひとときになりました。

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明日の安息日礼拝は、看護学生の皆さんによる音楽礼拝となっています。

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祈りが聞かれたとき

「こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」

(新約聖書 使徒言行録12:5 新共同訳)

初代教会に恐ろしい迫害の手が伸びていました。使徒ヤコブは剣で殺され、ペテロも投獄されました。人々は教会に集まり、ペテロのための必死の祈りがささげられていました。

ペテロがいよいよヘロデ王の前に引き出される前夜、神様は天使を遣わしてペテロを牢屋から救い出されました。祈りが聞かれたのです。自由の身となったペテロは、仲間たちが集まっていた家の戸を叩きました。その家の女中がペテロが牢屋から解放され、いま、戸の前に立っていることを祈っていた人々に告げました。それを聞いた彼らの反応はどのようなものだったでしょうか?

「人々は、『あなたは気が変になっているのだ』と言った』(同12:15)。

ペテロが守られるように、解放されるようにと心を合わせて祈っていながら、まさにその祈りが最高の形で聞かれたのに、その知らせを信じることができなかった人たち。そのニュースを伝えてくれた人に「あなたは気が変になっている」と言ってしまった人たち。彼らのその反応に、私は自分自身の不信仰を見せられる思いがします。信じて真剣に祈っているつもりなのに、その祈りに神様が応えて下さることをどれだけ本気で信じ切れているだろうか…?

神様を信じていながらも、目の前の状況の厳しさゆえに、心の中に疑いが入り込んでしまう弱さを私たちは持っています。幼い子どもが親の言葉や約束を全く疑わずに信じるように、私たちも神様への揺るぎない信頼を持って祈り続ける者となりたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋20151010祈りが聞かれたとき