投稿者「伊藤 滋」のアーカイブ

いなごのように思われ…。

イスラエルの民が奴隷状態だったエジプトを出て、荒れ野を旅して目的地であるカナンの地を前にしたとき、斥候として12人が選ばれました。彼らは民に先だってカナンの地を偵察し、報告するために派遣されました。偵察から戻った彼らの報告は次のようなものでした。

「わたしたちが行き巡って探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。またその所でわたしたちが見た民はみな背の高い人々です。…わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません。」(旧約聖書 民数記13:32,33 口語訳)

そこに背の高い人々が生活していたというのは事実でしょう。しかし彼らが、そこに住む人々から「おまえたちはいなごのようなちっぽけな人間だ」と思われていた、というのは斥候たちの悲観的な思い込みでした。私たちも目の前にある困難ばかりに目が行ってしまうとき、彼らと同じように「自分をいなごのように思い」「彼らにもそう見えたに違いない」と、否定的な考えに心が支配されてしまうことがないでしょうか。

斥候の中の一人、カレブの言葉は、時として歪んだセルフイメージに縛られてしまうわたしたちに強く訴えかけてきます。20151128いなごのように思われ…。

「わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です。もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう。それは乳と蜜の流れる地です。ただ、主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません。」(同 14:7~9)

あなたはどちらの声に耳を傾けるでしょうか?

 

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

それぞれの色

20151121それぞれの色甲州街道のイチョウ並木が色づいてきました。八王子に住むようになって気づいたのですが、この時期のイチョウ並木は、同じように植えられた木でも、よく見ると一本一本黄葉の度合いが違います。隣り同士の木でも全然葉の色が違うのです。並木全体が黄色に染まる黄葉の最盛期もきれいですが、個人的には葉の色が不揃いの今の時期のイチョウ並木が好きです。

グループで聖書を読んでいると、同じ聖書箇所を読んでいるのにメンバーそれぞれに心に残る部分や理解の仕方が違うということがよくあります。自分一人で聖書を読んでいても絶対に気付けなかったような気づきが、他の人の感想から与えられることが少なくないのです。グループで聖書を読むことの醍醐味だなあと感じます。

イエス様は「あなたがたは、なぜ正しいことを自分で判断しないのか」(新約聖書 ルカによる福音書12:57 口語訳)と人々に言われました。「聞く耳のある者は聞くがよい」もイエス様が繰り返し言われた言葉です。これらの言葉はいずれも「自分の耳で聞き、自分の心で感じ、判断すること」の大切さを私達に教えているように思われます。

自然の美しさが多様性によってあらわされているように、私たち一人一人も神様によってそれぞれが異なる個性を持つ者として造られました。それぞれの感じ方、それぞれの色を大切に、いつも命の源である神様につながって葉を茂らせたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

主よ、あなたはすべてを知っておられる

今週は健康診断に行ってきました。少し大げさかもしれませんが、健康診断は良くも悪くも「1年間の生活習慣の集大成」のようなものです。ドキドキしながら病院に向かいました。

一通り検査を終えて最後に保健師さんから検査結果の説明を受けました。「おめでとうございます!数値が改善されています。ただ、最近食生活が少し乱れましたか?」と言われ、思わず「え!?そんなことまで分かるんですか?」と聞き返してしまいました(思い当たる節がありました)。

私にとって健康診断は、年に一度のドキドキさせられる日ですが、健康を維持していく動機付けを保つ上で、とても大切な機会になっています。


 

主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。 

(旧約聖書 詩編139:1~5 新共同訳)


 

DSCF1679健康診断の検査で、自分でも気づいていないような体の状態が明らかにされるように、神様の目には私たちのすべてがあらわです。「自分のすべてが知られている」と考えると、不安や恐れを感じます。しかし、神様は私たちのすべてを知った上で、なおかつ私たちを愛することを選んでくださったのです。人から誤解され、悔しい思いをすることがあるかもしれません。そんなときにも神様に知られ、そして愛されていることに心の平安を見いだしたいものです。

 

※写真は昨年参加した「八ヶ岳・棒道ウォーク」の様子です。自然の中を歩くと身も心もリフレッシュさせられます。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

しっかりと根を張って生きる

20151107しっかりと根を張って生きる②プランターの花を植え替えました。日々草やサルビア、マリーゴールドなど、夏の花がまだ咲いていたので植え替えを躊躇する思いもあったのですが、園芸の先輩である父に相談したところ、次のようなアドバイスをもらいました。

「冬の花の苗は早めに植えたほうが、厳しい寒さが来る前にしっかりと根が育つから、寒さにも強くなる。」

それまでは「夏の花がまだ咲いているからもったいない」「できるだけ夏の花をもたせて、枯れたら植え替えよう」と考えていたのですが、父のアドバイスによって考えを改めることが出来ました。

植物の根の部分は、通常人目につくことはほとんどありません。しかし、根が健康に育っていなければきれいな花を咲かせることも、冬の厳しい寒さに耐えることも出来ません。ふだん目につく部分だけが大事なのではなく、目には見えない部分こそが肝心なのです。

イエス様は「種まきの譬え」の中で、次のように言われました。


 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。

(新約聖書 マタイによる福音書13:20,21 新共同訳)


 

「根がないので、すぐにつまずいてしまう」…実に考えさせられる言葉です。

しっかりと根を張った植物は、冬の寒さで土が凍っても、枯れることなく元気に花を咲かせます。そんな花のようにしっかりと根を張って生きることができるように、わたしも神様の言葉によって心を養っていきたいと思います。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

収穫の季節に

田舎育ちのせいでしょうか。私は田んぼの風景が好きです。一面に水をたたえた田植え直後の田んぼ。真夏の生命力にあふれる緑色に染まった田んぼ。収穫間近の豊かに実った稲が並ぶ秋の田んぼ…。季節20151031収穫の季節にによって様々な表情を楽しませてくれる田んぼの風景が好きです。

先日、実家の近くを散歩していると、収穫を終えた田んぼの風景が広がっていました。今年のすべての働きを終えた田んぼに「今年もお疲れさまでした」と声をかけたくなりました。

今年もスーパーの店頭に新米が並ぶ季節になりました。お金を払えば当たり前のように美味しいお米を手に入れることが出来るわけですが、春に植えられた稲が、害虫や水害・日照りや台風から守られて収穫に至るには、並々ならぬ生産者の皆さんの苦労や祈りがあってのことなのだと、秋の田んぼを眺めながら改めて考えさせられました。

今年の11月は、「全日本15バプテスマ月間」ということで、全国の多くの教会でバプテスマ式が予定されています。丹精込めた多くの働きと自然の恵みがあって農作物が収穫に至るように、一人の人がイエス様と出会い、イエス様を受け入れる決心をするには、どれほど多くの熱い祈りと、聖霊の神様の働きがあったことでしょう。


 

しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。

(新約聖書 ヨハネによる福音書4:35,36 口語訳)


 

 

 

収穫のために働き、祈り、共に喜ぶ者となりたいと思います。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋