投稿者「伊藤 滋」のアーカイブ

べスパーの報告

今日はしばらくぶりのべスパーでした。明日の安息日プログラムのため、一緒に東京から来てくれた青年たちも参加してくれて、より一層楽しいべスパーになりました。

それぞれの1週間あったことを分かち合い、聖書の言葉を学び、その後、おいしい夕食をいただきました。

写真を撮り忘れましたが、今夜のメニューは、野菜たっぷりの煮込みうどんでした。とてもおいしかったです!身も心もあたたまりました。

20160212べスパー

石を投げる資格

姦通の現場に踏み込まれ、捕えられた女性がイエス様のところに引きずり出されました。人々はイエス様を訴える口実を得ようとして、「律法ではこのような女は石で打ち殺せと言われているが、あなたはどう考えますか?」と迫りました。

誰かの隠されていた悪事や不祥事が白日のもとにさらされるとき、私たちは自分自身を裁判官であるかのように思い込み、その人を非難・攻撃します。2000年前のユダヤの人々も、現在の私たちも、人間の本質は変わらないのだと強く感じます。

イエス様はそんな彼らにこうお答えになりました。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

(新約聖書 ヨハネによる福音書8:7 新共同訳)

そのとき、イエス様は地面に何かを書いておられました(エレン・ホワイトは、訴えてきた人々の隠された罪をそこに書いておられた、と述べています)。訳知り顔で誰かを断罪し、非難するとき、私たちは自分の犯してきた罪を忘れています。しかし自分自身も人知れず罪を犯し、過ちを繰り返してきたことを思い返すとき、自分には誰かに石を投げる資格はないのだという事実を突きつけられるのです。

誰かに対して、思わず石を握りしめてしまうようなとき、先のイエス様の言葉を思い出し、「私のこの手は、誰かに石を投げるためにあるのか?それとももっと他のことをするためにあるのか?」と、考えてみたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

20160213石を投げる資格

※雪の朝。八王子市つどいの森公園で。

It’s my job!

 

お笑い芸人のイモトアヤコさんが自身の出版記念イベントで、こんな話しをしていました。

「なんでそんなに頑張れるのですか?」「なんでそんなに険しい山に登ったりできるのですか?」という質問をよくされます。そのたびにわたしは “It’s my job!” (仕事だから!)と答えています。「これが私の仕事なんだ!」と覚悟を決めることで、きつい仕事にも取り組むことが出来るのだと話しておられたのが、非常に心に残りました。

考えてみると、私たちには職業としての「仕事」だけに限らず、人としてそれぞれに与えられている役割があります。自ら買って出たい!と思える「仕事」もあれば、なんで私がこんなことしなきゃいけないの?と呟きたくなるような不本意な「仕事」もあるでしょう。イモトさんのこの言葉には、どのような「仕事」に対しても前向きに取り組むためのヒントがあるような気がしました。

わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

(新約聖書 ヨハネによる福音書6:38~40 新共同訳)

イエス様は父なる神様からご自分に託されていた働き、すなわち全人類の罪を背負って十字架上で死なれる、という「仕事」から逃げることはされませんでした。それは私たちの想像を絶するほど厳しく、恐ろしい道だったことでしょう。しかし、イエス様は私たち人間に救いを与えるために、この「仕事」を引き受けてくださったのです。

イエス様はご自分の「仕事」に徹する生涯を歩まれました。

あなたの「仕事」は何でしょうか?そしてあなたはいま、その「仕事」にどんな気持ちで取り組んでおられるでしょうか?

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真:八王子市内で。厳しい寒さの中にも春の兆しが現れています。20160206it's my job!

青春の日々にこそ

長男の卒業プログラムに出席するため、広島三育学院に行ってきました。広島三育学院の卒業プログラムは、金曜夜の卒業献身会・土曜日の卒業礼拝・日曜日の卒業式と3日続けて行われます。土曜日の礼拝の後にはバプテスマ式が行われました。当初2名の3年生がバプテスマを受けると発表されていましたが、当日朝に一人加わって、3名の3年生が、そしてさらに土曜日の夜に急遽1名の3年生がバプテスマを受けました。

20160130青春の日々にこそ卒業式の前日にバプテスマを受けた4人には、それぞれの迷いや悩み、心の中の戦いがあったことでしょう。急遽決まった夜のバプテスマ式も、本人は以前からバプテスマを希望していながら、ようやく保護者の了解が得られてこのタイミングでのバプテスマになったということでした。

「○○くんがバプテスマを受けることになりました!」という発表がされたときには、大きな喜びと感謝の拍手が全校生徒から湧き起こりました。雪が舞う中の式になりましたが、心の中が熱くなるひとときでした。


 

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。

(旧約聖書 コヘレトの言葉12:1,2 新共同訳)


 

悩みや葛藤、様々な試練を経験した高校生活の中で、創造主と出会い、一生従っていくことを決断した彼らが、天の御国に入る日まで、すべての誘惑や災いから守られて信仰を守り通すことができるように祈りたいと思います。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は、安息日礼拝後のバプテスマ式の様子です。

創造主のもとへ

昨年11月に購入したタブレットが、今週突然故障しました。落としたりぶつけたりしたわけでもなかったのですが、いきなり画面がはがれてしまったのです。購入したお店や携帯電話会社、製造メーカーの窓口などに問い合わせた結果、修理のために製造メーカーに引き取ってもらうことになりました。

私たちの身の回りには、様々な電気製品がありますが、それぞれの製品を一番よく知っているのは製造者です。製造者こそが、つくられたものを直し、もう一度蘇らすことができるのです。これは電気製品のみならず、私たち人間にもそのまま当てはまることです。

聖書は、私たち人間が神様によって造られた者であると教えています。神様が私を、目的と役割を持って創造されたのです。そのことを知らなくても生きていくことはできるかもしれません。しかし、電気製品が故障することがあるように、私たちの人生にも様々なトラブルが発生することがあります。そんなときこそが、私たちが創造者である神様に立ちかえるチャンスなのかもしれません。

だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。

(新約聖書 ペトロの手紙Ⅰ 4:19 新共同訳)

苦しみの中で、自分自身をすべてゆだねることのできる真実なお方がおられるのだということを覚えたいと思います。苦しみの中にある方が、その苦しみの中で真実な創造者である神様と出会うことができるように、心から祈ります。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

20160123創造主に自分の魂をゆだねなさい

  • 景信山頂からのぞむ都内の風景です。自然の中で、身も心もリフレッシュさせられます。