投稿者「伊藤 滋」のアーカイブ

祈り続けてくれた人

牧師になって間もない頃、右も左も分からず不安でいっぱいだった私を、いつも笑顔で励ましてくださった方がいました。時々お訪ねしてお話しをしたり、一緒にお祈りをさせていただいていました。その方がことあるごとに私にかけてくださった言葉が今も心に思い出されます。

「私はもう外に出て行って教会の働きをすることは出来ないけど、その分あなたの働きのために毎日ここでお祈りしているからね。」

当時90歳だった彼女は、若い頃と同じように教会の働きをすることは出来なくても、自宅で牧師や教会の皆さんのことを一人一人名前を挙げて祈ることが、神様から今の自分に与えられた働きだと確信し、祈りによってたくさんの人たちを支えておられたのでした。

壁に突き当たり、途方に暮れるような時、この方の「あなたのためにお祈りしているからね」という言葉と、ささげられた祈りにどれだけ支えられたか分かりません。彼女はしばらく前に眠りに着かれましたが、今も私は彼女の祈りに支えられているのを感じます。祈りは弱った人を支え、その人がなすべき働きを成し遂げるために必要な力を与えるのです。

「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

(新約聖書 ルカによる福音書22:32 新共同訳)

20160319祈り続けてくれた人イエス様も弟子たちのため、そして私たちのために祈って下さいました。自分のために祈ってくれる人がいることを思うとき、自分も誰かのために祈り続ける信仰者でありたいという気持ちにさせられます。私たちが祈りによって誰かを支え、励ましあたためることが出来るというのは神様から与えられた祝福ではないでしょうか。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は、厳しい寒さの中でこそ大活躍。憧れの薪ストーブです。

苦しみが愛おしい

春の楽しみの一つが、ふきのとうです。我が家の庭先にも冬の終わりごろになると毎年、ふきのとうが生えてきます。天ぷらやふきみそ、色々な楽しみ方があります。あの独特の苦みを味わうと「今年も春が来たなあ」と実感します。20160312苦しみが愛おしい②

ふきのとうなど春の山菜に含まれる苦味成分には、新陳代謝を促すなど、私たちの体に必要な成分が含まれているとのことです(食べ過ぎるとお腹を壊すことがあるそうですのでご注意を)。春を迎え、本格的に活動を再開するこの季節にこのような山菜が育つというのは、神様からの贈り物なのかな、と感じます。

「苦い」(にがい)という言葉は、「苦しみ」(くるしみ)という言葉と同じ漢字を使います。

沖縄出身のミュージシャン、BEGINの「その時生まれたもの」という曲に、次のような歌詞があります。

 明日くるはずの幸よりも 過ぎてゆく昨日の苦しみが

苦しみの方が愛おしい 愛おしいことを知りました

「幸よりも苦しみの方が愛おしい」とは、逆説的な言葉ですが、喜びや楽しみだけでなく、苦しみが私たちの人生をより深め、豊かなものにしてくれる、その通りだなと思います。私自身苦しみの中にあるとき、この歌に何度も励まされました。

苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

(旧約聖書 詩篇119:71 新改訳)

聖書もわたしたちに「苦しみ」が「しあわせ」になり得るのだと教えています。誰もが「苦しみ」は避けたいと願うものです。しかし、山菜の苦味が、私たちに力を与えてくれるように、人生の苦しみが私たちの糧となり得るのだとすれば、「苦しみ」も、神様から私たちへの贈り物なのかもしれません。

いま、苦しみの渦中にある方の苦しみが一刻も早く取り除かれますように、そして「苦しみにあったことはしあわせでした」と思えるような何かと出会うことが出来ますように祈ります。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

20160312苦しみが愛おしい①

※北国に春を告げる福寿草(撮影:森田栄作)

 

 

腕をつかんでくれた人

神学科2年生の冬に牧会実習(牧師になるための教会での実習)に参加しました。6週間という短い期間でしたが、多くの出会いがありました。毎週月曜日に指導牧師と一緒に参加していた聖書の学びの会の最後の日、ある教会員の方から「卒業後は牧師になるんですか?」と聞かれました。「いやあ…ぼくには無理だと思います」と私。するとその方は、私の腕をつかんでこう言いました。「あなたがどんなに逃げようとしたって、神様はあなたを決して離さないから覚悟していてください!あのヨナがそうだったように。」

思いがけない強い言葉に驚きました。そしてさらにビックリしたのは、自分の目から涙がこぼれ落ちて来てしばらく止まらなかったことです。

もしもゆるされるのなら、自分も牧師として働きたい。そう願いながらも、強い劣等感のゆえになかなか一歩踏み出すことができずにいた私にとってこの言葉は、「どんなに逃げようとしても私はあなたを離さないよ。」と神様から言われたように感じられ、胸が熱くなりました。

「しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。」

(旧約聖書ヨナ書1:3 新共同訳)

ヨナだけでなく、私たちも時に神様の導きから逃げ出したくなる弱さを持っています。

今週から不定期で「私が出会った人たち」というテーマで書いてみようと思います。出会いは人生を変えます。そんな尊い出会いが、まるで隠された宝のように私たちのありふれた日常の中にちりばめられています。逃げようとする弱い私を、素晴らしい出会いを通して導き、支えてくださる神様を心から讃美します。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋20160305腕をつかんでくれた人

人それぞれに歩幅あり

先日、高尾山登山をしたときのことです。麓から自分のペースで歩き始めてしばらく行くと、前の方に若い人たちのグループがいるのが見えました。初めはあまり気にしていなかったのですが、距離が縮まって来たので「追い越そう」と思い、少し早足になりました。一つのグループを追い越すと、追い越した人たちに抜き返されるのも恥ずかしく思えてさらにペースが上がります。いつの間にかすっかり自分のペースを見失い、人よりも早く歩くことばかりに気持ちが向いてしまいました。

私のような気持ちで山を歩く人へのメッセージでしょうか。高尾山の登山口にはこんな言葉が書かれています。 20160227人それぞれに歩幅あり①

「人それぞれに歩幅あり 何事も焦らずに 高尾山」

山歩きだけでなく、人生の歩き方にも当てはまる言葉だなあと感じました。私たちは他人と自分を比較する癖がなかなか抜けません。よせばいいのに、人と自分を比べては落ち込み、またあるときには思い上がったりします。どちらも幸福な状態ではありません。

洗礼者ヨハネは、イエス様の先駆けとして大切な役割を果たした人物でした。彼のもとから人々が去り、イエス様の方に集まっていくのを危惧した弟子たちに彼が語った言葉です。

「天の神様が、一人一人にそれぞれの役割を決めてくださる。」

(新約聖書 ヨハネによる福音書3:27 リビングバイブル)

自分の歩幅で、自分に与えられた役割を果たしていく。それは、人との比較や戦いではなく、自分自身との戦いです。いま、あなたに与えられている役割は何でしょうか?

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

20160227人それぞれに歩幅あり②

 

種を蒔け

 

今週、2人の方の葬儀に出席する機会がありました。葬儀には、故人の生きてこられた歩みが凝縮されていると常々感じています。私は故人の人生の歩みのすべてを知っているわけでは決してありません。しかし、そこに集まった人たちの言葉や思い、流される涙、そして長年の歩みの中で刻まれてきた年輪のようなものが、その方の命の重みとして伝わってくるのを、葬儀に出席する度に感じます。

「一生を終えてのちに残るのは、我々が集めたものではなくて、我々が与えたものである」(ジェラール・シャンドリ)

これは、クリスチャン作家の故・三浦綾子さんが、その作品『続・氷点』の中で紹介している言葉です。「集めたものではなく、与えたものこそが残る」とは、実に考えさせられる、人生の真実を切り取った言葉であると思います。

葬儀に出席する度に、この言葉が心の中に思い出されます。故人が遺されたものを自分は受け取っただろうか?そして、自分は「集めること」より「与えること」に、心を用いて生きているだろうか?と考えさせられます。

朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか/それとも両方なのか、分からないのだから。

(旧約聖書 コヘレトの言葉11:6 新共同訳)

聖書は私たちに「種を蒔け」と語りかけています。あなたは今、どんな種を蒔いて生きておられるでしょうか?

大切な方としばしのお別れをされたご遺族の上に、イエス様からの慰めと平安が豊かに注がれますように、心よりお祈りいたします。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

20160220種を蒔け

※早春の海。茨城県日立市小貝浜で。(撮影:伊藤穣)