投稿者「伊藤 滋」のアーカイブ

覚えられていた祈り

あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。

(新約聖書 使徒言行録10:4 新共同訳)

先日、嬉しいことがありました。しばらく連絡を取ることが出来なかった知人と再会することが出来たのです。「どうしているかなあ、元気にしているかなあ…。」

その方のことがずっと気になりながら祈っていました。しかし、2年ほど連絡もつかず、会うこともなかったので、いつしか「この祈りを神様は聞いておられるのだろうか?祈っていても状況は変わらないかもしれない。会えないのだから、状況が変わってもそれを知ることも出来ないじゃないか」と、祈り続けることを諦めてしまっていました。

そんなときに、ふとしたことからその方と再会することが出来たのです。しかも、2年前に会ったときよりも元気そうで「あなたのことをずっとお祈りしていましたよ」と言われるのです。

祈ることを諦めていた自分が恥ずかしく、申し訳ない気持ちになりました。神様は私の細々とした祈りを覚え、応えて下さったのです。状況がどうであったとしても、私たちの小さな祈りを確かに聞き、覚えてくださるお方がいる。そのことを心に刻み、祈り続ける者でありたいと強く思いました。

いま、九州地方で起きた大地震で、多くの方が傷つき、不安と悲しみの中で不自由な生活を余儀なくされています。「こんな大災害の中で、自分がささげる祈りに何の意味があるのだろうか?」「祈ったところで状況が少しでも好転するのだろうか…。」そんな疑念が胸に湧いてくるかもしれません。しかし、私たちには祈りを聞き、覚えて下さるお方がいるということをもう一度心に刻みたいと思います。そして、今も大きな困難の中にある方々を覚え、心を込めて祈り、またそれぞれが出来ることに取り組もうではありませんか。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

20160423あなたの祈りと施しは

※写真は高尾山の新緑です。

強さと明るさの秘密

Mさんはいくつかの持病に加えて足の骨を骨折して入院中でした。そんなMさんの病院に初めてのお見舞いに行くとき、いったい自分はこの方に何と言葉をかけたらよいのだろうかと不安な気持ちになりました。

しかし、私のそんな心配をよそに、Mさんはいつも変わらぬ笑顔で迎えて下さいました。Mさんの周りにはいつも明るい光が射しているかのような、あたたかい空気が漂っていました。

「こんな苦しみの中にありながら、何がこの方をこんなにも強く明るくさせているのだろう?」と不思議になるくらいでした。

ある日、Mさんの病室を訪ねると、いつものMさんとは違って表情が暗く、ふさぎこんでいる様子でした。しばらく病室に滞在して、帰ろうとすると「聖書の言葉を紙に書いてください。私にも読めるような大きな字でお願いします。」と言われました。

一緒にお見舞いに行っていた指導牧師の先生がきれいな大きな字で聖書の言葉を紙に書いてMさんに渡しました。Mさんは、宝物を受け取ったように、その紙をしっかり握りしめ、何度も何度もそこに書かれている聖書の言葉を読み返し、自分の心に刻みつけているようでした。

そのMさんの姿に、「何がこの方をこんなに強く明るくさせているのか?」という疑問のヒントを見せられたような気がしました。

あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって/呼ばれている者です。

(旧約聖書 エレミヤ15:16 新共同訳)20160416強さと明るさの秘密

苦しみの最中にあるとき、私たちは必死に神様にすがります。しかし、その苦しみが通り過ぎると、いつの間にか神様を求める気持ちも薄まってしまうことがないでしょうか?平穏無事に過ごす中で神様の必要を忘れてしまう状態よりも、病の苦しみの中で「むさぼり食べるように」神様の言葉を求めている状態の方が、神様に近く、人として本来あるべき姿なのではないか?Mさんは、その生き方を通して教えて下さいました。

 

※写真は片倉城跡公園の新緑です。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

 

叱ってくれた先生

神学校を卒業して数年後のことでした。母校の宗教週間(招かれた講師が1週間、朝夕の集会で聖書のお話をする行事)でお話をさせていただく機会がありました。学生や恩師の先生方の前でお話をするというのは、私には荷が重く感じられ、緊張の連続でした。

一日目、二日目…ガチガチに緊張して、冷や汗をかきながら壇上に立ち、何とか用意した原稿をただ読むだけで時間が過ぎて行きました。集会が終わると、ある先生が厳しい表情で私のところにやってきました。

「緊張するのは分かるけど、もっと学生の顔を見て話してくれ。せっかく大切なことを話しているのに、それじゃ伝わらないぞ!」

そのときの私には、正直言ってとてもきつい言葉でしたが、そのときの私が最も必要としている言葉でもありました。そのようなアドバイスをするというのは、先生にとっても辛く言いにくいことだったでしょう。しかし、本当に私のためを思ってこのような率直なアドバイスをくださったあの先生に、今も感謝しています。そして、今でもときどきこの先生の顔とアドバイスの言葉が心の中に思い出されます。

「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。

(新約聖書 ヘブライ人への手紙12:5~7 新共同訳)

行き詰まりや試練の中で途方に暮れる経験こそが、神様が愛を持って私たちを鍛え、育んでくださる時なのかもしれません。桜の花が開花するためには厳しい冬の寒さが必要だと言われます。それと同じように、私たちそれぞれが神様から受け取っているものを開花させるために、与えられている鍛錬を、信じて耐え抜く者でありたいと思います。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

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主に結ばれているならば

生まれて初めての海外は、マレーシア・サラワク州でのワークキャンプでした。ジャングルの奥地の小さな村で、村の人たちと一緒に井戸掘りをしました。村に着くまでは不安でいっぱいでしたが、村の人たちにあたたかく迎えられて夢のような2週間を過ごしました。このキャンプで、人生が変えられるような体験をすることが出来ました。

村を去る時、日本から参加したメンバーと村の人たち、現地の牧師たちみんなが別れを惜しんで涙を流しました。「この人たちと天国で再会したい!」心からそう願い、日本に帰国しました。

それから20年以上過ぎた2011年、あの懐かしいマレーシアのサラワクを、高校生たちと一緒に教会建築のIMG_20160329_145246ボランティアで訪れました。教会建築の現地に向かう朝、教区の事務所で準備をしていると気のいいおじさんたちが私たちに声をかけてきました。「どこかで会ったことある人だなあ…。」と思って話していると…なんと20年前に高校生だった私たちを井戸掘りに案内してくれた現地の牧師さんではないですか!?

20年前の写真を見せ合いながら、互いに再会を心から喜び合うことが出来ました。

わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 15:58 新共同訳)

「主に結ばれているならば、無駄に終わることは一つもない」神様の約束です。動かされないために、決して揺らぐことのないお方とつながりましょう。もしも私たちが主につながっているならば、再臨の日に(あるいは再臨の前に世界のどこかで)、再会することができるのです。

4月を迎え、新しい環境でのスタートを迎えている方もいるでしょう。「動かされないようにしっかり立ち、主に結ばれて」それぞれの歩みを続けていきましょう。あなたの苦労や涙が、決して無駄になることはないというのが、主の約束です。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

話しを聴いてくれた人

忘れられない恩師について書いてみたいと思います。その先生は、とても情熱的で雄弁で、一緒にいるだけでこっちまで元気になるようなエネルギッシュな方でしたが、その一方で、心を込めて話しを聴いてくださる方でもありました。忙しい中、時間をとって下さるだけでなく、とりとめのない私の話しに、じっくりと耳を傾けて下さいました。

「話を聴く、ということは自分の時間と存在そのものを、相手に差し出すことである」という言葉を聞いたことがあります。心を込めて、耳を傾けて話を聴いてくれる人がいるとき、「自分はひとりではない。自分の存在をこんなに大切にしてくれる人がいる。自分は大切な存在なのだ。」という安心感を得ることが出来るということを、実体験を通して知ることが出来ました。

そのようなありがたい体験をしていながら、自分はどれだけ人の話しに真剣に耳を傾けてきただろうか?相手の話しや心の叫びを聴くことよりも、自分の意見、自分の考えを相手に語ることばかりに躍起になっていなかっただろうかと、恥ずかしくなることがあります。

わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。

(新約聖書 ヤコブの手紙1:19 新共同訳)

聖書も私たちに「話すことよりも聞くこと」を大切にするように教えています。まずは今日一日、出会う人や身近な人の話しに、静かに耳を傾けてみませんか?

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

20160326話を聴いてくれた人

※写真は、八王子市内、信松院の河津桜です(2016年3月8日撮影)。