投稿者「伊藤 滋」のアーカイブ

目からうろこが落ちる体験

今週、ある聖書研究の集まりで「目からうろこが落ちた」体験について考えました。

皆さんそれぞれにご自身の体験を語って下さいました。お話しを聞きながら感じたのは、「目からうろこが落ちる」体験というのは、辛い体験が多いのではないか、ということでした。それまで自分が正しいと信じてきたものが実は間違っていたことに気づかされたり、自分の間違いを正されたりすることは、誰にとっても辛いことです。この「目からうろこが落ちる」と言う言葉は、聖書の言葉が元になっています。

そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、また食事をとって元気を取りもどした。

(新約聖書 使徒行伝9:17~19 口語訳)

 

サウロ(のちの伝道者パウロ)にとってイエス・キリストとの出会いは、自分の価値観を根底から覆される体験でした。自分が大切にしてきたものを否定して、新しいものを受け入れるのは、勇気のいることだったに違いありません。しかし彼は、後に自身の体験を次のように語っています。KC4I0063

しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。

(新約聖書 ピリピ人への手紙3:7,8 口語訳)

イエス・キリストと出会うということは、「目からうろこが落ちる」体験をすることです。これまで大切にしてきたものが、どうでもよくなってしまうほどに素晴らしいものと出会うことが出来るのです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は片倉城跡公園の菖蒲田です。

 

義に飢え渇く人の幸い

もっと自分に恥じぬ生き方をしたいのに、同じような失敗を繰り返し、自己嫌悪に陥ってしまうことがありませんか?

キリスト教主義の高校で、学校付き牧師をしていたときのことです。多くのの生徒と出会い、楽しい思い出もたくさん出来ましたが、自分の悩みと正面から向き合っていた生徒たちの姿が、今も心に強く焼き付いています。

今、自分がすべきことは希望する進路に進むため、毎日コツコツと努力を重ねることだと自分が一番分かっているはずなのに、ついつい悪ふざけをして、学校生活を続けることが出来なくなってしまい、悔し涙を流していた生徒。

両親が必死に働いて自分を学校に送ってくれているのに、目標を見失ってしまい、両親の期待に応えることが出来ずにいる自分を許せなくて、苦しんでいた生徒。

今の自分の状態を何とかして改めたいと、必死にもがきながらも、なかなか古い自分から抜け出すことが出来ずに、もがく生徒たちの姿を見るのは辛いことでしたが、自分の弱さと真剣に格闘している彼らの姿はかけがえのないほどに尊く、神聖なものに感じられました。

イエス・キリストが「山上の説教」の中で語られた言葉は逆説的で、一見すると理解しがたく思えるのですが、悩み苦しみ、悔し涙を流す生徒たちの姿を見たときに、この言葉の意味が少し分かったような気がしました。

義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

(新約聖書 マタイによる福音書5:6 新共同訳)

自分の内に「義」がないことを知り、「飢え渇き」をもってそれを探し求める人を「幸いだ」とイエス・キリストは言われました。「苦しみながらも、あなたが諦めずに求め続けるならば、あなたは必ず満たされる」という約束です。悩み苦しんでいたかつての生徒たちが成長して、自分の道を立派に歩んでいる様子を伝え聞くとき、心励まされる思いがします。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

20160521義に飢え渇く人の幸い

※写真は府中郷土の森公園です。

みことば配布プロジェクト

兼務している八王子教会では、この4月から「みことば配布プロジェクト」を始めました。これは教会員の皆さんが思い思いの聖書の言葉をカードに書き、それを「神様、今日この聖書の言葉を必要としている方と出会わせてください。」という祈りを込めて道行く人たちに手渡す、という活動です(甲府でも同様の活動をしてみたいと思っています)。

「そんなことをしても効果がないのではないか」「ポケットティッシュだってなかなか受け取らないのに、カードを受け取る人がどれほどいるのか」…などなど、心の中に疑念が湧かなかったわけではありません。この活動は、3月に行われた青年部の行事の「街を行き交うたくさんの人たちに、自分に出来ることをやってみよう」というプログラムの中で、一人の高校生の提案から始まりました。正直言うと私も出て行って知らない人にカードを手渡しするのは不安でした。でも、自分たちが信じている神様の言葉を伝えるために出て行くとき、教会の中にとどまっていては出来ない体験をたくさんすることが出来ると実感しています。出て行くことが不安になるとき、次の聖書の言葉に心励まされています。

風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない。…朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか/それとも両方なのか、分からないのだから。20160514みことば配布プロジェクト

(旧約聖書コヘレトの言葉11:4,6 新共同訳)

街に出て行ってカードを配ることは出来なくても、ご自宅でカードに聖書の言葉を書いて持ち寄って下さった方々もおられます。集められた様々な筆跡の手書きのカードを見て、色々な方の思い・信仰・祈りがこうして集められているのだと感じ、嬉しくなりました。

この一枚のカードが、受け取って下さったどなたかの心の中で実を結ぶことを祈りつつ、種を蒔き続けたいと思っています。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

 

岩の上に家を建てる人

以前働いていた小学校の同窓会に出席させていただきました。十数年ぶりに会ったかつての小学生たちは、当時の面影を残した笑顔と、しかしそれぞれに立派に成長した頼もしい姿を見せてくれました。一緒に働いていた先生方、教え子たち、保護者の方々も集まって思い出話に花を咲かせたり、お互いの近況報告を聞いたりと、楽しく有意義な時間を過ごすことができました。

小学生だった当時と一見変わらないかのように見える笑顔の裏には、人知れず流した涙や、その場では語ることのできないような苦労があったことでしょう。今も苦しみの渦中にある、という人もいたかもしれません。小学生だった彼らと一緒に学んだイエス様のたとえ話を、もう一度みんなで一緒に読みました。

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

(新約聖書 マタイによる福音書7:24~27 新共同訳)

どんな土台の家も、平時にはその違いは分かりません。しかし大雨が降り、土台が揺さぶられるような事態が起きたときに、両者の違いがはっきりするのだとこのたとえ話は教えています。

神様を信じているからと言って、苦しみに遭わない訳ではありません。しかし、人生の荒波の中にあっても揺らぐことのない、確かな土台が何であるかを知っている人は幸いです。

同窓会で再会した一人一人が、「岩の上に家を建てる」人生を歩んで欲しい、と祈るとともに、自分自身が何を土台として生きているのか、もう一度考えさせられる機会となりました。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋20160507岩の上に家を建てる人

本気で向き合ってくれた先生

私が小学校6年生の時の担任は、とても厳しい先生でした。こっぴどく叱られたことが数えきれないほどありました。3年生のときに転校してきて卒業までの4年間の内、2年間はこの先生が担任でした。

毎朝の朝の会の時には、教室に「ピリッ」とした空気が漂います。しかし先生は、ただ厳しいだけではなく、遊ぶ時には児童と一緒に思いっきり遊び、楽しい思い出もたくさんできました。

さて、卒業式当日のことです。いつものように張りつめた空気で朝の会が始まりました。先生からの最後の言葉を、みんないつもよりさらに真剣に耳を傾けました。一通りお話しが終わった後、「おれもお前たちと一緒に卒業したいよ…。」と言って先生が男泣きに泣きながら、私たちとの別れを惜しんでくださいました。

あれから30年以上過ぎましたが、私たちの卒業にあたって先生が流された涙を忘れることができません。卒業後何年かたって、高校生の時、友だちと一緒にこの先生を訪ねると、「今日は職員室の他の先生たちに『これから教え子たちが遊びに来るんだよ』って思いっきり自慢してきたよ」と嬉しそうに話してくださいました。

人が「自分は愛されている」と感じるのはどんな場面でしょうか?

やさしくされたり、何か高価なものをもらったときにそう感じるだけでなく、厳しくも本気で向き合ってもらうときに感じられる愛があるのだと、この先生を思い出すときに強く感じます。

「本気の思い」は、確かに伝わっていくのです。

イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。

(新約聖書 ヨハネの第一の手紙3:16 新共同訳)

イエス・キリストは、これ以上ないくらい「本気」で、私たちを愛してくださったと聖書は教えています。私たちは今、イエス・キリストの「本気の思い」を感じ、受け取っているでしょうか。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋20160430本気で向き合ってくれた先生

※写真は高尾山口から六号路登山口の間に咲くシャガの花です。