投稿者「伊藤 滋」のアーカイブ

起きなさい。恐れることはない。

先週の安息日の午後、兼任している八王子教会では「みことば配布プロジェクト」を実施しました。有志の方々でカードに思い思いの聖句を書き、道行く人たちに祈りを込めて配布しました。

教会を出発する前、不安そうな顔をしていた人も、すべてのカードを配り終えて帰って来るときには、見違えるように明るい表情になっていたのがとても印象的でした。

今週出会った聖書の言葉です。

弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」

(新約聖書 マタイによる福音書17:6,7 新共同訳)

20160702起きなさい。恐れることはない。「変貌の山」での出来事です。イエス様は恐れる弟子たちに、「起きなさい。恐れることはない」と言葉をかけられただけでなく、「彼らに手を触れ」られた、と書かれているのに目が留まりました。

イエス様は私たちの恐れを取り除いてくださいます。心が震え、恐怖で足がすくみ、地面に這いつくばってしまうようなとき、そんな私たちに優しく触れて立ち上がらせてくださるのです。

正直に言いますと、私は教会の外に出て行ってトラクトを配ったりするのがあまり得意ではありません。出て行くときにはドキドキしますし、勇気を出して配り始めても、受け取ってもらえなかったりすると「自分には無理だ」と思ってしまいます。でも、そんな恐れに取りつかれてしまう私を、イエス様は優しく励ましてくださるのです。

自分でも「牧師失格だなあ、、、。」と感じます。でもそんな私を、厳しく断罪するのではなく、優しく手を差し伸べてくださるイエス様から力をいただいて、また街に出て行きたいと思っています。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

斧を研ぐ

今週、全国牧師会(全牧師が集まっての研修会)が持たれました。

今回の牧師会のプログラムは、私たちセブンスデー・アドベンチスト教会の特徴の一つでもある、聖書が教えている健康についての学びでした。

「学び」というものは楽しいものでもあり、また苦しいものでもあります。それは、自分が知らなかったことを知る喜びであり、また、自分の心に真理が突きつけられる厳しさ、今まで安穏と過ごしてきた自分が変わらなければならないことに気づかされる辛さです。

苦しいことがあるからと言って、学ぶことをやめてしまえば成長はありません。

 なまった斧を研いでおけば力が要らない。知恵を備えておけば利益がある。

(旧約聖書 コヘレトの言葉10:10 新共同訳)

20160625斧を研ぐ切れない刃物で作業をするのはとても危険なことです。切れないので力が要りますし、力を込め過ぎて怪我をしてしまうことがあります。よく研がれた包丁で料理をすると、料理の腕が上がったような気分になります。

あなたは、自分という「刃物」を、定期的に研いでいますか?すっかり切れ味が落ちてしまっているのに力ずくで無理して使い続けてしまってはいないでしょうか。

「自分という刃物を研ぐ」とは、よい状態で働きを続けるため、自分自身のメンテナンスを怠らないこと(学びを続けること・定期的に自分の目的地を確認すること・健康な心身を維持するために定期的に休むこと)なのではないかと思います。

今週も、皆様の心と身体が健やかでありますように。そして切れ味よく、日々の務めを果たすことが出来ますようにお祈りさせていただきます。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

花開く

荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ

(旧約聖書 イザヤ書35:1 新共同訳)

楽しみにしてきたことが実現すると嬉しいものです。先週そんな嬉しいことがありました。今年も百合の花がようやく咲いたのです。しばらく前からつぼみになっていたのですが、なかなか花が開きません。思わず、カッターで切れ目を入れてしまおうかとも思いましたが、花が自然に花開くときを待つことにしました。先週の金曜の朝、一つめの花が開くと、あとは次々に見事な花が咲きました。

コツコツと地道な努力を積み重ねて来た人が実力を発揮し始めるとき、「あの人の才能が開花した」と言われます。

百合の花も、私たち人間の努力も、すぐにきれいな花を咲かせるわけではありません。厳しい冬の季節を経て、春になって芽を出し、少しずつ成長して、ようやくこの時期に花開くのです。

美しい百合の花が咲くこの季節に、花が開くまでの目立たない時間の大切さを心に留めたいと思います。その下積みの時間があってこそ、美しい花が開くのですから。

 偉人の到達した高さは20160618花開く

 一足飛びに達し得たものではない

 かれらは、仲間が眠っている間に

 ほねおって夜道を登っていったのだ

 足の下にいろいろなことを踏まえ

 良いものや益になるものを習得し

 高慢をしりぞけ、欲望を殺し

 刻々に立ち現れる悪を征服して

 われわれは立ち上がるのだ

 その場かぎりで現れては消える

 日々のできごとやすべての平凡な事がらや

 歓喜や不満など

 それはすべて上へ登る階段なのだ

(エレン・ホワイト『教育』より)

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

むなしく天に戻ることはない

今年も梅雨の季節になりました。人間とは贅沢なもので、雨が続けば「いいかげん晴れて欲しい、、、。」とつぶやき、真夏のような太陽の日差しがやってくると「そろそろお湿りが欲しい」とこぼします。

先日ニュースで報じられていましたが、今年は記録的な少雪と5月が少雨だったために、水源地のダムの貯水量が例年よりもかなり少なく、取水制限が実施されることが検討されているということです。

雨や雪が続くと「勘弁してほしいなあ~」と愚痴をこぼしていましたが、あの雨や雪が私たちの生活を支える命の水になっているのです。

このニュースを見ながら、自分に必要なものが与えられているのに、それを感謝することもせず、つぶやいてしまうようなことが他にもなかっただろうか?と考えさせられました。

「なぜこんな試練に遭わなければならないのか」

「こんな経験に何の意味があるのか」…等など。

そんな気持ちにさせられる辛い出来事にも、後にならなければ分からない大切な意味や、神様のご計画が隠されているのかもしれません。

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。

天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。

雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。

そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。

(旧約聖書 イザヤ55:8~11 新共同訳)

容赦なく降り続く雨や雪のような試練も、決して無駄になることがないばかりか、私たちの人生に潤いを与え、実りをもたらす恵みになるのだという神様の約束です。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は、片倉城跡公園の菖蒲田です。数週間前よりも花が開きました。

走りつくす

息子の中学校の体育デー(運動会)に行ってきました。中学生が力いっぱい走って競い合い、心から喜び、20160604走りつくすまた涙を流す姿はとても感動的でした。

聖書の中に「すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ」(伝道の書9:10)という言葉がありますが、力を尽くして何かに取り組む姿は人の心を動かす力があります。高校野球が人々の心を引き付ける理由も同じ理由ではないでしょうか。

伝道者パウロは、様々な教会に書き送った手紙の中で「走る」と言う言葉をしばしば使っています。

  • 「わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。」(コリント人への第一の手紙9:26)
  • 「あなたがたはよく走り続けてきたのに、だれが邪魔をして、真理にそむかせたのか。」(ガラテヤ人への手紙5:7)
  • 「このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。」(ピリピ人への手紙2:16)
  • 「目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」(ピリピ人への手紙3:14)

これらの「走る」という言葉は、いずれも私たちの生き方・目的地に向かって進んでいく姿勢をあらわしています。

「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。」(テモテへの第二の手紙4:7)

人生の最後に、自らの一生を振り返ってこう言える人は本当に幸せな人ではないでしょうか。人との比較ではなく、自分が神様から与えられた道のりを最後まで走り抜いた!と心から喜んで言うことが出来る、そんな生き方をしたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は北浦三育中学校体育デーの様子です(撮影:渡辺孝行)。

※引用聖句はすべて口語訳より。