投稿者「伊藤 滋」のアーカイブ

汗を流す

照りつける太陽、蝉の鳴き声、蚊取り線香のにおい…今年も夏がやってきました。20160806汗を流す

暑い夏には汗をかくものですが、最近「汗」が悪者になっているように感じられるのは私だけでしょうか?

コンビニエンスストアに行くと、汗ふきシートやスプレーなどの制汗グッズがたくさん売られています。中には毛穴にふたをして、汗が出るのを抑えるようなものもあります。

人間の皮膚には、身体の中に溜まった老廃物や毒素を体外に排出する、とても大切な役割があります。私たちの身体は汗をかくように造られています。暑い日に汗をかくということは健康のために必要なことなのです。

暑い日に身体を動かして、全身から汗を流すと心身ともにスッキリします。その後シャワーを浴びると生き返った気持ちになります。

聖書の中にこんな言葉があります。

「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、/あなたは土から取られたのだから」(旧約聖書 創世記 3:19  口語訳)

土から造られ土に帰る者として、汗を流す者として私たちは造られました。

「汗を流す」という言葉には、「苦労をする」というニュアンスもあります。

私たちが心や身体から汗を流すとき、その一滴一滴は決して無駄にはなりません。誰かを幸せにし、自分自身を健康にしてくれます。

「イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。」(新約聖書 ルカによる福音書22:44 口語訳)

イエス様は私たちのために苦しみ、汗を流して下さいました。一年で一番暑い季節に、「汗を流す」ことの意義をもう一度見直してみませんか?

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

そして、神に至る。

海の日の連休に実家に帰り、母方の親戚の集まりに参加しました。しばらくぶりに再会したおじさん・おばさ20160730そして神に至るん、いとこたちとその家族(初めて会った小さな子どもたち)と一緒に過ごしていると、時計の針が子どもの頃に戻ったような(そこから急に進んだような)不思議な感覚になりました。総勢34人が集まりました。

おじいちゃんおばあちゃんの血が、母やそのきょうだいたちに受け継がれ、またその子どもたちにも脈々と流れているんだなあ、と感じる場面がしばしばありました。

働き者だったおばあちゃんによく似て、真面目によく働くおばさんたち。

明るく面倒見がいいおばさんによく似た従姉妹たちは、おばさんの生まれ変わりのように、しっかり者のいいお母さんになっています。


 

神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。

(旧約聖書 創世記1:26 新共同訳)

それからさかのぼると、…そして神に至る。

(新約聖書 ルカによる福音書3:38 新共同訳)


 

子どもが両親に、そして親が祖父母に良く似ているように、私たち一人一人は神様に似せて造られました。さかのぼって行くと「神に至る」と書かれてある通りです。

罪の影響によって、私たちは神のかたちを失ってしまっていますが、それでも「神に似せて造られた者」です。実家に帰る時、自分のルーツを思い出すことが出来るように、神様の元に立ち返る時、自分が何者なのかを再確認し、本当の自分自身を取り戻す事が出来るのです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は解散前にみんなでスイカ割りをしたときの様子です。

子供たちをわたしのところに来させなさい。

先週末、兼任している八王子教会では毎年恒例のVBS(夏期聖書学校)でした。今年は教会に泊まってスーパー銭湯や花火、早朝から近くの公園でカブトムシ取りをしたり、熊本地震を支援する気持ちを込めてねんど工作(熊本県のマスコットキャラクター「くまモン」を作りました)をしたりと、盛りだくさんの1泊2日でした。

ふだん教会で顔を合わせている子どもたちの、ふだん以上に楽しそうな笑顔が印象的でした。


 

イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

(新約聖書 マルコによる福音書10:13~16 新共同訳)


 

20160723子供たちをわたしのところに来させなさいイエス様のところに子どもたちを連れてこようとしていた人たちを弟子たちが叱った、と書かれています。もしかしたら、イエス様の弟子であるはずの教会や牧師が、イエス様のもとに来ようとしている子どもたちの妨げになってはいないだろうか?と自問させられます。

あるスタッフの方が言われた「教会で遊ぶことはイエス様と遊ぶことと同じじゃないかなぁ」という言葉が心に響きました。VBSは終わりましたが、これからも子どもたちがイエス様のところに来るサポートをしていきたいものです。子どもたちを優しく抱っこされた、イエス様の笑顔を思いながら…。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

流れのほとりに植えられた木

先日、高尾山登山をした帰り道のことです。川の流れのそばに生えている紫陽花は元気に花を咲かせ20160716流れのほとりに植えられた木ていましたが、川から少し離れた場所の紫陽花は、しおれかけていました。

今年の関東地方は空梅雨でした。雨が少ないと紫陽花も元気を失います。しかし、そんな中でも、流れのほとりの紫陽花には力強い生命力が感じられました。

次の詩編の一節が思い出されました。


いかに幸いなことか…主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人。

その人は流れのほとりに植えられた木。

ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。

その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。 

(旧約聖書 詩編1:1~3節 新共同訳)


私たちは今、何に根をおろして生きているでしょうか。どこから命の糧を得ようとしているでしょうか。

聖書は、イエス・キリストこそが決して枯れることのない命の水の源であると教えています。この水から離れるとき、私たちは日照りにやられた紫陽花のように生気を失ってしまうのです。

魅力的に目に映る物が次々と現れては消えてゆくこんな時代にあっても、決して変わることのない、「イエス・キリスト」という水の源、川の流れのほとりに根をおろして生きる者でありたい、と願っています。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

心のタンク

ある本を読んでいたとき、思わず「心から納得!」とうなずかされたことがありました。それは「心のタンク」について書かれた以下の文章でした。

私たちは皆、心のタンクを持っています。タンクのてっぺんには入り口があり、底の方には出口があります。そして、ある種の活動はタンクの中身を減らし、またある種の活動はタンクの中身を満たします。私たちが行っている行動の中には、力を与えてくれるものと、力を奪っていくものがあるのです。…あなたを満たしてくれるものは何でしょう。あなたを疲れさせるものは何でしょう。

(ウェイン・コデイロ『あなたが燃え尽きてしまう前に』110ページ)


 20160709心のタンク私たちは慌ただしく過ぎる日常の中で、自分の心のタンクがいつの間にか目減りして、カラカラになっていることに気づかずに過ごしてしまうことがないでしょうか。それでも無理して走り続けるといつか燃え尽きてしまいます。著者はそのような状態を「オイル交換をせずに車を何年も乗り続けるようなもの」(前掲書112ページ)と言っています。

私は神様がつくられた自然の中で身体を動かしていると、汗と一緒に心の中から毒素が放出されていくような気分になります。山歩きをして麓に帰って来るころには、心地よい疲労感とともに心のタンクが満たされているのを実感します。人それぞれの心のタンクの満たし方があると思いますが、聖書は「神様こそが『生ける水の源』である」と教えています。いつも神様につながって心のタンクを満たしていただきたいものです。


 

まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。水をためることのできない/こわれた水溜めを。

(旧約聖書 イザヤ2:13 新共同訳)

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は梅雨の中休みの高尾山頂です。